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末永史尚「軽い絵」

Maki Fine Artsでは2月17日(土)より3月17日(日)まで、末永史尚 個展「軽い絵」を開催します。Maki Fine Artsではおよそ3年半ぶり、5回目の個展となります。

「軽さ」の一撃――末永史尚「軽い絵」展について
森啓輔(千葉市美術館学芸員)

 手製の正方形のキャンバスを縦横に8、16、32マスずつ正方形に分割し、それぞれに彩色された末永史尚の絵画は、幾何学的かつ抽象的でありながら、何かしら固有の図像を鑑賞者に伝えている。これらの絵画制作について、作家本人が「ドット絵」に触れ、制作過程でのiPadの使用に言及しているように、本展「軽い絵」の出品作は、その解像度がたとえ「低い」ものと認識されるとしても、テクノロジーやデジタルデバイスとの相関性を確かに有している。ゆえに、会場に並べられたそれらは、壺のような赤い容器、花、人々の集まり、爆発(!)と、特定の世代にはコンピューターゲームの懐かしい一場面を想起させ、ある種の感傷を引き起こすかもしれない。
 このiPadを用いた新たな展開は、例えばコロナ禍以前に発表されていた、インターネット上での20世紀のモダン・マスターらの作品画像の検索結果の画面を描いた〈サーチリザルト〉といった先行するシリーズとの関連が指摘できる。そして、これまでモチーフとして選ばれてきた付箋や水平器、タトウ箱といった作家の身の回りにある日用品や、絵画の額縁などの目の前に実際にある対象、つまり現実世界の再現=表象(representation)が絵画制作を通じて行われてきたことを踏まえるならば、本展の作品群での身体性を喚起させる細部の塗りの揺らぎもまた、作家によって認識されたディスプレイの発光を含む絵画化として、理解することが可能だろう。
 このように、現実にある対象の絵画化=事物化を命題とする末永の制作理念は、抽象化の過程で行使される還元、圧縮、置換、反復といった変換にまつわる操作ゆえに、必然的に現実と近似する「シミュラークル」の様相を帯びている*。これまで作品と絵画の制度の近接性が示されてきたことからも、本作もまたドット絵の「擬態」として、システム自体のハックの志向を読み取るべきだろう。換言するならば、末永の絵画は、そのあからさまな顕われに対し、諸コードの記号的な運用においてこそ、その存在が担保されているということだ。だから、正方形の形態を単位とし、非線形的な組み合わせとなる64、256、1024マスの色面で複雑に構成された本作は、当然のことながら、過去の多くの絵画―ゲルハルト・リヒターの〈カラー・チャート〉や、本展「軽い絵」のタイトルに間接的に影響を与えたパウル・クレーのグリッドに接近した抽象絵画など―を召喚し、それらとの接続可能性を鑑賞者に惹起させる。
 とはいえ、それぞれの作品との視覚的類似性を、過剰な記号の戯れとして消費することは、末永の絵画に潜勢する戦略の高次性を、かえって減じさせかねないともいえる。例えば、リヒターが1966年に始めた〈カラー・チャート〉へのマルセル・デュシャンによる「レディメイド」の参照、あるいは61年に西ドイツに移り、強い影響を受けたポップ・アートに、末永の主体を留保した即物的な物体であろうとする絵画、さらには、初期の活動でロイ・リキテンスタインに関心を持ち、印刷物というメディアへの接近を端緒とした近年のデジタルデバイスまでの連続性をはじめ、それら連綿と継続されてきた個としての絵画と美術史に刻まれた数々の絵画は、張り巡らされた関係性の網目の細かさこそが見つめられなければならない。
 20世紀の終わりから現在までの末永の実践は、四半世紀を経過しようとしている。日常生活に、複数のメディアが強固に結び付き、それら複雑な情報環境が全面的に展開されていく現実世界の事物化が目論まれたその制作手法は、社会と不分離であるがゆえに、活動開始当初に、色濃く時代を覆っていたポストモダンという症候をもまた背負い続けてきたように思われる。本展のタイトルで明示された「軽さ」とは、末永の作品全てに通底する特性であった。そのような情報の均質化=平板化や、質量の簒奪の帰結である「軽さ」や「小ささ」といった、グローバリズムが蔓延していく時代と並行する戦略については、より詳細にその意義と可能性が検証されてしかるべきだろう。本作品群において、ミニマルな正方形の集合が、他者の絵画作品の数々のみならず、過去の自作との連関を可能とする操作であるように、近年に顕著にみられるこのアーカイヴァルな性質は、作品を理解するためのことさら重要なピースであるに違いない。少なくとも、私にとってそれらの「軽い絵」は記号として読み解くことを要請しながら、本稿で指摘したように平面としてのその顕れにおいて、安易な消費を拒む複雑な豊かさを逆説的に与えるのであり、作品を宿命付けた時代が重ねてきた歴史の重さと等価な、作家の信念ともいえる一撃、あるいは一刺しの凄まじさを感じさせる。

*「シミュラークル」とは、フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールによって提唱された概念。消費社会を複製された記号が覆い尽くすことによって、現実世界そのものが記号化され、旧来の事物に対する認識が変容していく文化現象を指す。

 紛争のニュースの中で目にする乗り物兵器に、不謹慎と理解しながらも格好良さを見出している自分を認めてしまう。その感覚の根っこの一つに幼い頃からのビデオゲームの経験があったかもしれない、と思ったことが契機となっている。
 描かれたイメージはゲームから引用したものもあるし、デジタルドローイングをiPadのピクセル描画アプリでピクセル化したものもある。また、ゲームから引用したイメージを改変したものもある。
 元のイメージがいずれであっても、ドット絵のデジタル下絵を表示したiPadを側に置いて見ながら写している。ディスプレイの発光して見える色と顔料とメディウムが混ざって見える色は受像のあり方が異なるので、置き換えと関係の再構築がここで行われる。手と筆で塗られるため色と色との境目はぶれやズレ、微妙なはみ出しをつくりだす。また、平たく塗られているように見えるが、筆の震えや圧の痕跡は残っている。いくつかの要因が複合して、元絵にほぼ忠実なのだけど捉え所が異なる、控えめに抽象的なイメージがそこに固まっていく。

末永史尚

末永史尚|Fuminao Suenaga
1974 年山口生まれ。1999 年東京造形大学造形学部美術学科美術 I 類卒業。これまでの主な展示として、個展「エントランス・ギャラリー vol.3 末永史尚 覚え、ないまぜ」(2021年/千葉市美術館1階 ミュージアムショップBATICA、エントランススペース)、個展「ピクチャーフレーム」(2020年/Maki Fine Arts)、「アートセンターをひらく (第 I 期 第II期)」(2019 -2020年/ 水戸芸術館 現代美術ギャラリー)、「百年の編み手たち – 流動する日本の近現代美術 – 」(2019 年/東京都現代美術館)、「MOTコレクション ただいま / はじめまして」(2019年/東京都現代美術館)、個展「サーチリザルト」(2018 年/ Maki Fine Arts)、「引込線 2017」(2017年/ 旧所沢市立第2学校給食センター)、「APMoA Project, ARCH vol. 11 末永史尚「ミュージアムピース」(2014 年 / 愛知県美術館展示室 6)、「開館 40 周年記念 1974 第 1部 1974 年に生まれて」(2014 年 / 群馬県立近代美術館)など。

Group Show – 豊嶋康子 | 荻野僚介 | 伊藤誠

Maki Fine Artsでは12月16日(土)より2024年2月4日(日)まで、3名の作家によるグループショーを開催いたします。新作、および近作を展示いたします。是非ご覧ください。

豊嶋康子|Yasuko Toyoshima
1967年埼玉生まれ。東京芸術大学大学院 美術研究科油画専攻修士課程修了。日常社会の制度や仕組みを批評的に捉え、人間の思考の「型」を見出すことをテーマとして、作品を発表している。
近年の主な展示に、個展「発生法─天地左右の裏表」(2023-2024年 / 東京都現代美術館)、「Public Device -彫刻の象徴性と恒久性」(2020年 / 東京藝術大学大学美術館)、「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」(2019年 / 国立新美術館)など。東京都現代美術館に作品が収蔵されている。

荻野僚介 | Ryosuke Ogino
1970年埼玉生まれ。明治大学政治経済学部卒業、Bゼミスクーリングシステム修了。 色彩と形態の関係性を考察しながら、主に色面を用いた絵画作品の制作を行っている。
近年の主な展示に、「日本国憲法」(2023年/ 青山|目黒)、「heliotrope(ヘリオトロープ)」(2022年 / 照恩寺)、個展「造形言語」(2021年 / See Saw gallery+hibit)など。東京都現代美術館に作品が収蔵されている。

伊藤誠|Makoto Ito
1955年愛知生まれ。武蔵野美術大学大学院 造形研究科彫刻コース修了。様々な素材を用いた立体作品は、軽やかでユーモアがあり、同時代の彫刻の可能性を模索している。
近年の主な展示に、「DOMANI・明日展 2022–23」(2022-23年 / 国立新美術館)、「heliotrope(ヘリオトロープ)」(2022年 / 照恩寺)、「オムニスカルプチャーズ—彫刻となる場所」(2021年/ 武蔵野美術大学美術館)など。東京国立近代美術館、愛知県美術館などに作品が収蔵されている。

加納俊輔「Combined City」

Maki Fine Artsでは、11月4日(土)より12月3日(日)まで、加納俊輔の個展「Combined City」を開催します。Maki Fine Artsでは7回目、約2年半ぶりの個展になります。加納の作品は、写真を通じて、画面に複数の階層を作ることで、「見ること」への感覚を問い直します。写真を複数回撮影して多次元のレイヤーを作り、画面を圧縮する「layer of my labor」や、印画紙を透過させ、表と裏を同時に見ることを実現化した「Pink Shadow」など、ものの前後関係や奥行きが曖昧になるような、イリュージョンを生み出す作品を発表してきました。

今回の個展で発表する新シリーズ「Combined City」は、これまでとはアプローチが異なり、写真によるコラージュに近いものです。ひとつの対象を異なる視点から撮影し、画面上で複数の写真を組み合わせる手法で制作されています。対象を複数の視点から同時に見ることを具体化した「Combined City」は、加納が北九州市に旅した際に見た光景が、アイデアの原点になりました。人口規模の大きい5つの市が同等に統合した北九州市は、歴史的にも稀な合併とされ、小が大に編入されるのでなく、均一のものが複数共存する、「合体都市」としてのイメージが作品に繋がっています。画面を横断し、交差する曲線は、地理的な境界線を想起させますが、隣り合うピースが分断されることなく、断続的に繋がり合いながら、新しい次元の風景を構成しています。

道になにかが落ちている。遠くにキラっと光るものを見つけ、近づいてよく見るとたんなる石で、なんとなく手に取って眺めてみて、また道に置いてその場から立ち去る。遠くから目を細めて見たり、近づいて凝視したり、ただ視界に入っているだけだったり、たんなる道端に落ちていた石に対しても、時間や距離の変化とともに複数の視線が存在する。

「Combined City」は、一つの対象に対して複数の視線で撮影された写真を解体し、それらを再構成することで複数の視線を同時に眺めることを試みている。

一つの対象に向かう複数の視線を統合すること、または一つの対象に向かうその時間を一気に圧縮することで立ち上がる状態を見てみたいと思う。

加納俊輔

加納俊輔 | Shunsuke Kano
1983年大阪生まれ。2010年 京都嵯峨芸術大学大学院芸術研究科修了。近年の主な個展に、「森を見て木に迷う」(2023年 / 千總ギャラリー)、「サンドウィッチの隙間」(2021-22年 / 京都市京セラ美術館 ザ・トライアングル)、個展「滝と関」(2021年/ Maki Fine Arts)、「圧縮トレーニング」(2021年 / clinic)など。THE COPY TRAVELERSのメンバーとしても活動。

長田奈緒「目前を見回す」

この度、Maki Fine Artsは新スペース(新宿区天神町77-5 ラスティックビルB101)に移転し、9月9日(土)より10月8日(日)まで、長田奈緒 個展「目前を見回す」を開催いたします。

シンプルな重なり
中尾拓哉(美術評論家/芸術学)

 対象aとbがある。aとbはともにイメージであるかもしれないし、ともに物体であるかもしれない。あるいは、aとbはそれぞれにイメージと物体、もしくは物体とイメージであるかもしれない。
 長田奈緒は、「すでにあるもの」の「イメージ」を――写真に写し、版に写し、素材に写し――複製する。素材となる「物体」もまた「すでにあるもの」である。「すでにあるもの」のイメージは塗膜となり、そしてその塗膜は支持体に写される。「イメージ」をa、「物体」をbとするならば、「b(すでにあるもの)→a(撮影した像)→b(塗膜)→b(支持体)」と移されていく。つまり「既存のイメージが支持体に転写される」という長田の作品の状態は、「塗膜」としての「(物体=イメージ+物体)」と「支持体」である「+物体」の組み合わせとなり、「(b=a+b)+b」となる。
 aである「イメージ」は「非在」、bである「物体」は「実在」である。ただし、長田の作品においては、モチーフとなる「すでにあるもの」、そのとある状態を撮影した写真、その写真の印刷、その印刷がなされる素材が既製品というように、「複製」が連続していることが重要なのだ。

a=イメージ[複製]
ほとんど誰も気にとめない差異において、二つのものが同一となり、それゆえに複製として認識されている。複製は同じであることにこそ価値を置くが、気にとめるか、とめないかは別として、必ず差異が発生する。陳列され、反復される同一のイメージは、所有によって一つの固有性を宿すものへと変わる。

b=物体[複製]
物体は「版」あるいは「型」によって、二次元、三次元に複製される。フィルムやデータ、およびシルクスクリーンの「版」は、紙や布、それ以外の素材へと印刷され、また素材は「型」によって複製物となる。ただし「版」と「型」による複製物は、ズレや個体差、すなわち染み、汚れ、皺、傷を含みもつ。

 これらは複製一般の、「イメージ」および「物体」についての記述である。長田の作品において、「すでにあるもの」および「既製品」の「イメージ」は「塗膜」として印刷(複製)され、同時に「すでにあるもの」および「既製品」の「物体」が「支持体」となる。そして、それらすべてが「すでにあるもの」の複製となるのであれば、「複製のイメージ=a」は塗膜として「複製の物体=b」となり、支持体となる「複製の物体=b」と二重に、、、重なる。長田はこの「(b=a+b)+b」という「(物体=イメージ+物体)+物体」のaとbすべてに複製を重ね、最終的に、それらが一つの「すでにあるもの」として認識される(ように見える)状態をつくり出している、ということになるのだ。
 ただし、大抵の場合、塗膜と支持体は一つとなっていない(例えば、ダンボールのイメージがダンボールの物体に重ねられることはない)。例外はあるにせよ、「イメージ」と「物体」は個別に複製であることを主張していることが多い。この複製の「イメージ」と複製の「物体」の重なりから派生する、別のフレームについて考える必要がある。

a’=イメージ[レディメイド]
レディメイドはアートワールドにおけるコンテクストが与えられ、解釈の広がりをもつ。マルセル・デュシャンがレディメイドの影を写真に写し、アンディ・ウォーホルがレディメイドのデザインを版に写し、ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイスがレディメイドを本物と見分けられない別の素材に写したことが想起される。

b’=物体[レディメイド]
レディメイドはそれ自体が個別のメディウムとしての性質をもつ。チューブ絵具がキャンバスに載せられれば絵画になり、像が印画紙に転写されれば写真となるように、イメージは異なる支持体、すなわち紙、布、木、石、金属、アクリル、鏡、ガラス、窓、建築物の一部など、別のメディウムへと写されることによって作品化される。

 「すでにあるもの」としての「イメージ」と「物体」の重なりには、非芸術としての既製品「a+b」と、芸術としてのレディメイド「a’+b’」という視線が重なる。したがって、「(b=a+b)+b」という複製の重なりには、「既製品」であるA=非芸術と、「レディメイド」であるB=芸術を重ねる、「A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}」というフレームが潜在することになる。
 長田は対象aと対象bの「既製品/レディメイド」を選び、aを撮影し、bに印刷し、新たな「イメージ/物体」を創出する。そして、何よりも重要なのは、そのイメージが「既製品/レディメイド」として使用されながらも、廃棄されるもの、、、、、、、の方である、ということである。より正確には、その視線は廃棄されるものの痕跡、、に向けられているのだ。
 長田がイメージとして選んだ「すでにあるもの」のなかには、例えば既製品というコンテンツを「包む」、「支える」、あるいは「包んでいた」、「支えていた」ものとして、複製の周縁性をいっそう強調するものが散見される。そして、塗膜と支持体は、明確にそれぞれが異なるメディウムとして重ねられている。このとき、その痕跡のイメージは、A=非芸術であることを装いながら、選択されたメディウムを支持体にして写されたものという意味でB=芸術であるという様態をあらわにするのだ(メディウムの選択は恣意的であるが、実用性が剥奪されているという意味で、アートワールドにおける作品性が表れている)。こうして、染み、破れ、皺、傷などのあらゆる固有性は「痕跡=タッシュ(tache)」に重なる位置へと移されるのである。
 塗膜と支持体は「平面」で合わさっている。その「絵画=二次元」的な染み、汚れ、および「彫刻=三次元」的な皺、傷は、三次元化せずに二次元のまま、しかも三次元性をコピーした「絵画=二次元」的な「イリュージョン」として支持体に写される。このとき複製は模倣(ミメーシス)として、「痕跡/タッシュ」をもった「既製品/レディメイド」を写す、物体のイメージ化(二次元化)であり、別のメディウムに写されることによる「既製品/レディメイド」のイメージの物体化(三次元化)でもある。この作品化のプロセスが、絵画・彫刻的な「コンテンツ」を、包み、支え、そして廃棄されていく、日常(生活)と芸術(制作)のいずれにおいてもにある、中心ではなく周縁に「すでにあるもの」の「イメージ」と「物体」によってなされるのだ。だからこそ、非芸術=Aに「生活/制作」のサイクルという一つの日常を入れ子構造として取り込み、そのイメージ化、物体化をB=芸術に固定させず、A=非芸術へと返すことともなる。
 こうして長田の作品は、「既製品/レディメイド」の非芸術と芸術のフレーム、「A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}」の重なりの上で、非芸術と芸術を回転させる。A=非芸術である「痕跡」はB=芸術となり、B=芸術である「タッシュ」はA=非芸術となるように。「オリジナル」と「コピー」、あるいは「アウラ」と「非アウラ」の正位置となる「芸術作品としてのイメージの固有性」とそれを支える「複製としての支持体の複数性」が逆位置となるのである。すなわち、「B[A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}]+A[A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}]」となる。それは「複製としての支持体の複数性」に固有性を与え、「芸術作品としてのイメージの固有性」に複数性を与える、という状態の重なりとなるのだ。印刷のズレのように、既製品の個体差のように。対象aとbがある。そのシンプルな重なりにおいて。

長田奈緒 | Nao Osada
1988年生まれ。2016年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。身近にあるもの(例えばamazonのダンボール箱、Ziplocのフリーザーバッグなど)の表面の要素を、シルクスクリーンを用いて、実際とは異なる素材(木材やアクリル板など)の表面に刷った作品を制作。
近年の主な展示として、グループ展「日本国憲法展」(2023年/無人島プロダクション)、グループ展「メディウムとディメンション Liminal」(2022年/柿の木荘)、個展「少なくとも一つの」(2022年/Maki Fine Arts)、グループ展「感性の遊び場」(2022年/ANB Tokyo)、個展「I see…」(2022年/NADiff Window Gallery)など。

Group Show
グレン・ボールドリッジ | ホーリー・クーリス | アレックス・ダッジ | 城田圭介

グレン・ボールドリッジ|Glen Baldridge
 No Way
2021年
Gouache on paper
60.96 x 46.04 cm
ホーリー・クーリス | Holly Coulis
Lemon on End
2022年
Gouache on Arches paper
45.72 x 60.96 cm
アレックス・ダッジ | Alex Dodge
Tanks – January 24, 2023 (Midnight Embassy)
2023年
oil and acrylic on canvas
42.2 x 56.2 cm
城田圭介 | Keisuke Shirota
Coastal path 
2022 – 2023年
photograph and oil on canvas board mounted on wood frame
60 x 90cm

Maki Fine Artsでは5月13日(土)より6月25日(日)まで、4名の作家によるグループショーを開催いたします。新作、および近作を展示いたします。是非ご覧ください。

グレン・ボールドリッジ|Glen Baldridge
1977年アメリカ合衆国テネシー州ナッシュビル生まれ。近年の主な展示に、個展「Wigwag」(2023年/ Klaus von Nichtssagend Gallery)、個展「What Now Who How」(2022年/ Halsey McKay Gallery)、個展「No Way」(2019年 / Halsey McKay Gallery)など。メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館、ホイットニー美術館、RISD美術館などに作品が収蔵されている。

ホーリー・クーリス| Holly Coulis
1968年カナダ、トロント生まれ。近年の主な展示に、個展「Sun Shift」(2023年/ Cooper Cole Gallery)、個展「Eyes and Yous」(2022年/ Klaus von Nichtssagend Gallery)、個展「Orbit」(2021年/ Philip Martin Gallery)など。ブラントン美術館、Nerman美術館などに作品が収蔵されている。

アレックス・ダッジ|Alex Dodge
1977 年アメリカ合衆国コロラド州デンバー生まれ。近年の主な展示に、個展「Personal Day」(2023年 / BB&M)、個展「Laundry Day : It all comes out in the Wash」(2021年/ Maki Fine Arts)、個展(2020年 / Klaus von Nichtssagend Gallery)、「Programmed: Rules,Codes, and Choreographies in Art, 1965-2018」(2018-19 年 / ホイットニー美術館)など。メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館、ホイットニー美術館、ボストン美術館、RISD美術館などに作品が収蔵されている。

城田圭介|Keisuke Shirota
1975 年神奈川県生まれ。近年の主な展覧会に、二人展「Beyond the Frame 城田圭介×那須佐和子」 (2023年/ haco -art brewing gallery- )、個展「Out of the frame」(2022年 / Maki Fine Arts)、個展「Over」(2021年 / Maki Fine Arts)、「写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS」(2019年-2020年 / 茅ヶ崎市美術館)など。茅ヶ崎市美術館に作品が収蔵されている。

益永梢子「その先の続き」

益永梢子
近づいてみるとそれは花畑ではなくて
2023年
木製パネル、キャンバス、アクリル絵の具、ジェルメディウム、木炭
73 x 73 x 5.5 cm
益永梢子
一応は名付けられた時間の境目にいる
2023年
木製パネル、キャンバス、アクリル絵の具、ジェルメディウム
37 x 35 x 4.5 cm

Maki Fine Artsでは3月18日(土)より4月23日(日)まで、益永梢子 個展「その先の続き」を開催いたします。Maki Fine Artsでは初となる個展、是非ご覧ください。

「出来事としての絵画」 沢山遼(美術批評家)

 益永梢子の制作において、絵画は描かれるのではなく、造形される。彼女の絵画には、画家に無条件に与えられる、所与の条件としての支持体というものが存在しない。だからそこでは、キャンバスという支持体があり、その上にイメージを載せる、という一般的な絵画のありようは、かぎりなく遠ざけられている。

 むしろ、益永の制作において絵画の基底的な面となる支持体は、彫刻家があつかう素材のように、可変的、可塑的な操作対象としてある。だからイメージは、支持体の物質的な可塑性その厚みとともに、、、、生起する。絵画は、展開・拡張され、幾重にも積層し、折りたたまれ、湾曲し、ねじられ、めくられ、たわみ、剝がされ、貼りつけられる。絵画は、こうした一連の動的な語彙で形容しうる、諸々の変形作用を受け入れることで造形される。彼女の絵画において、支持体の造形とイメージの生成が同時、、、であることは、その論理的、構造的な帰結である。

 絵画は、そのような変形作用を行使する画家の挙動、行為をたえまなく記録するとともに、画布もまた、キャンバスの木枠の窮屈さに耐えかねるように枠から開放され、みずからの布としての変形作用を全面化する。自力では物理的に自律できない布は、幾重にも屈曲し、ときに時間とともに変形したわむことで、そこに加えられる力学的な力が知覚される。絵画はそこで、画家のさまざまな挙動、素材の物質的な可塑性=変形可能性、重力などの力が分離不可能な状態で交錯する力学的な場=出来事としてある。進行形の出来事を記録する場(トポス)としての絵画が開設される。

 そのとき、益永の絵画は、名詞ではなく動詞的なものへと変わる。彼女の手がつくりだすのは、見る者の眼の前で生成・展開する動的な対象としての絵画であるからだ。それは、周囲の空気や風を受け入れるようにひるがえり、みずからの呼吸のリズムとともにかすかに振動し、ひっそりと息づいている。

益永梢子 | Shoko Masunaga
1980年 大阪生まれ。2001年 成安造形短期大学造形芸術科卒業。2018-2019年、文化庁新進芸術家海外研修制度によりニューヨークに滞在。絵画を起点とし、多様な手法を用い制作を行っている。周囲の環境・空間との関係性を重視する作品群は可変的で置換可能な性質を持つ。近年の主な展示として、個展「editing」(2022年/nidi gallery)、個展「replace」(2021年/LOKO Gallery)、グループ展「Ordinary objects」(2020年/Maki Fine Arts)、個展「Box, Box, Box」(2019年/Cooler Gallery)、「クリテリオム93 益永梢子」(2018年/水戸芸術館現代美術ギャラリー)、「VOCA展2017」(2017年/上野の森美術館) など。

平野真美「空想のレッスン」

平野真美
蘇生するユニコーン
2014年
樹脂、シリコン、毛、電動ポンプ、エアーコンプレッサー他
165 x 138 x 50 cm

Maki Fine Artsでは2月4日(土)より3月5日(日)まで、平野真美 個展「空想のレッスン」を開催いたします。
これまで平野は、病気で衰弱した愛犬の身体の大きさや骨格などを正確に再現した作品「保存と再現」(2013年)や、亡くなった愛犬の遺骨が納められた骨壺をCTスキャンし、3Dプリンタで出力した遺骨を硝子や陶磁に作品化した「変身物語」(2018年~)などを発表してきました。それらの作品は、慈悲的で、死への眼差しを伴った観察の記録であり、失った存在を受容するためのセルフ・リフレクションともいえます。
Maki Fine Artsでは初めての個展となる本展では、2014年から現在進行形で取り組む作品「蘇生するユニコーン」の、新たな実践のプロセスが提示されます。想像上の生物であるユニコーンの実在化を試み、骨格・内臓・筋肉・皮膚などを緻密に制作、肺と心臓に生命維持装置をつなぎ合わせ、まるで生命を宿したかのような存在として出現させます。本展ではユニコーンに加えて、その身体の深部までを辿り、表皮、臓器、神経、血管、筋肉、骨格の設計図を展示します。拡張し続ける、平野のライフワークとしてのプロジェクトを是非ご覧ください。

転生と解剖:平野真美にみる「科学と魔術」の衝突を巡って
高橋洋介(キュレーター)

骨格や皮膚、血管、内臓といった身体のあらゆる部位を樹脂やガラス、金属などの人工物で模造することで、平野真美は実在しない空想上の生物や死んでしまった動物を擬似的に現実に甦らせ、「いまこの時代に生きることの手触り」を問いかけてきた。死に近づいていく寝たきりの愛犬を、剥製のように精巧に再現したデビュー作《保存と再現》(2014)が、愛する家族の一員の命を現世になんとか止めようとする蘇生の儀式であったとするなら、前作の《変身物語》(2020)は、その続編として、工学的にスキャンされた愛犬の骨格をパート・ド・ドヴェールという古代のガラス工芸の技法で鋳造し、失われてしまった愛しき関係や記憶をいかに失わずにいられるのかが模索されている。

両作の狭間で開始された本作《蘇生するユニコーン》は、古代の神話上にしか存在しない架空の生物である「一角獣」を、外見—-眼球、鬣、皮膚、蹄など—-のみならず、骨格、臓器、血管といった見えない部位まで作り込むことで、まるでフィクションが現実であるかのように錯覚する体験を生み出している。一見すれば、本作は、我々が大人になるにつれて失ってきたファンタジーの世界の回復であり、近代以降、愚蒙として捨て去ってきた神話的な想像力の復権として解釈できる。
 しかし、よく見れば、解剖台の上のユニコーンは内臓剥き出しで横たわり、輸血され、心電図で心拍数を確認されるほどの、瀕死の状態である。それは、むしろ現代において神話的な想像力が死に絶えかけていることの隠喩と理解できる。つまり、かつて神話や宗教の物語は世界の成り立ちや謎を説明するものとして機能してきたが、実験と数量化に裏打ちされた現代の科学の合理的な説明を前に、もはや神話的想像力で世界を説明することは迷信に満ちた怪しいものに変わってしまった。神話や宗教は客観性を欠いたオカルトへと失墜し、私たちはユニコーンが実在すると欠片も信じることはできなくなってしまった。極言すれば、本作は科学によって解剖された瀕死の「前近代性」の象徴なのだと。
 にもかかわらず、消え失せゆく神話的な想像力を、なぜ平野はその死の淵から救い出そうとするのか。しかも、途方もない労力をかけて。アメリカの哲学者モリス・バーマンは、原子炉やコンピュータ、遺伝子工学など科学の合理性が世界中に浸透してあらゆるものを支配・管理すればするほど、人間は、狂気、空想、夢、神話、象徴、魔術のような非合理なものを必要とすると述べ、その社会/精神の構造こそが、シュルレアリズムやダダのような芸術を我々が必要とした理由だと分析した。*1 サルバドール・ダリは溶けていく時計によって直線的で機械論的な合理的な時間を否定し、ルネ・マグリットは瓶と人参を相似的に融合させることで理性では理解できない感性の理を表したが、平野もまたそのような科学の合理性の裏側を芸術によって探求していく作家として位置づけられるだろう。シュルレアリズムは「ミシンと蝙蝠傘との解剖代の上での偶然の出会い」のような美しさ、つまり、ミシンや傘といった「日常的なオブジェ」が本来とは違う文脈に移されることで生まれる違和感ともなった新しい美しさ(デペイズマン/異化効果)を探求したが、平野の「解剖台の上で生々しい臓器を露わにするユニコーン」においては、20世紀のありきたりな既製品(レディメイド)を援用する手法は棄却され、ユニコーンという前近代の「非日常的なモチーフ」が工芸的ともいえる精緻な造形技術と解剖学の援用によって近代的な現実へ挿入される。バーマンの議論は、単に近代社会に抑圧された人間の諸問題は前近代の価値観へ回帰すれば解決するという話ではない。むしろ、近代が捨て去った神話的な想像力とは、生物としての人間の最下層に根差した初源的な認識の形態であり、自我以前の未発達な文明の認識というより、むしろ科学的な世界観が築かれた後でさえ、人間の存在の根本的な土台をなすほどに欠くことができないものなのだ。それは合理化された現代においてさえ、なぜ非合理と反有用性の塊である芸術があらゆる社会で生産/需要されるのかという本質の一部を解き明かす。この視点に立てば、ユニコーンの復活が、魔術ではなく、神話を殺した科学ー輸血器具、心電図、解剖台などーによってなされるという本作の逆説は、むしろ、前近代的な神話的想像力を維持したまま、いかに近代の問題は超克できるのか、という問いとして変換されるべきだろう。あるいは、人工知能が絵を描き、音楽を作曲し、車を運転する、現代を見渡すなら、SF小説家アーサー・C・クラークが予言したように「高度に発達した科学はもはや魔法と区別できない」世界が到来する予兆として。
 しかし、加えるなら、前作の愛犬の骨格理解がユニコーンの造形に応用されていることは、本作が平野の家族とも言える動物との絆から生まれてきていることを意味する。これを人生の伴侶たる動物を神獣へと転生させる行為として捉えるなら、本作は、愛するものの時を超えた転生への願いであり、人間以外の生命への敬意の表現とも言えるだろう。日本の哲学者の奥野克己はアイヌ文化の熊送りの儀礼を通して「表層的な現実を生きる人間の日常だけでは掴み取ることが困難な、言語以前の外部世界に触れること」や「他の生命への感受性」こそアニミズムの精髄と結論づけたが、私たちは、ここにもそのような「今日のアニミズム」を実践する21世紀の芸術の可能性の一端を見ることができる。*2 あらゆるものを数量化し、操作可能なものに変え、人間の意志を強制し、過剰に人間中心主義的な方向へ堕ちていく世界の中で、人間がたとえ神のような力を得たとしても、それを人間以外の生命を敬い、その傲慢さを抑えるような方向へと反転させよ。その態度にこそ、時代の常識を打ち破る芸術の本質が宿っているのだ、と。

*1 モリス・バーマン著 柴田元幸訳「デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化」国文社、1989
*2 奥野克己+清水高志「今日のアニミズム」以文社、2021

平野真美 | Mami Hirano
1989年 岐阜県出身。2014年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程先端藝術表現専攻修了。
闘病する愛犬や、架空の生物であるユニコーンなど、対象とする生物の骨や内臓、筋肉や皮膚など構成するあらゆる要素を忠実に制作することで、実在・非実在生物の生体構築、生命の保存、または蘇生に関する作品制作を行う。不在と死、保存と制作、認知と存在に関する思索を深め、現代の私たちはいかにそれらと向き合うのかを問いかける。
主な発表に「ab-sence/ac-cept 不在の観測」(岐阜県美術館、2021)、「2018年のフランケンシュタイン バイオアートにみる芸術と科学と社会のいま」(EYE OF GYRE、2018)、「平野真美 個展 変身物語METAMORPHOSES」(3331 Arts Chiyoda、2021)など。

長田奈緒「少なくとも一つの」

長田奈緒 | Nao Osada
Printed sprayed paints
2022年
木材、シルクスクリーン
61 x 49.5 x 17 cm

Maki Fine Artsでは9月17日(土)より11月6日(日)まで、長田奈緒 個展「少なくとも一つの」を開催します。Maki Fine Artsでは約2年ぶり、2回目の個展となります。是非ご覧ください。

「刷られている(なにか)」と「見えている(なにか)」-長田奈緒の芸術

梅津元(芸術学)

 キャンディが取り出され、包装という役目を終え、後は廃棄を待つだけの、取るに足らない、なにか。初めて実見した長田奈緒の作品《Candy wrapper(LIETTA LIGHT) 》(2019)は、その「なにか」を、ポリエチレンにシルクスクリーンという技法によって再現した作品だった。容易には見つけられず、ようやく発見した時には、はっと息を飲むような瞬間が訪れた。さりげなく、つつましい佇まいに見えながら、これが作品なのだと了解してからも、驚きの感覚が持続し、見れば見るほど、確固たる作品世界が打ち立てられていることに、心底驚かされることになった。これが作品なのかという驚き。対象を忠実に再現する技術に対する驚き。作者の介入がまるで無化されているように見えることへの驚き。それだけではない、「なにか」への驚き。
 そうした驚きは、優れた芸術作品と遭遇した時の感覚と共通する側面もある。しかし、それ以後、長田の作品を実見する機会を重ねる度に確かに得られる「驚きが持続する感覚」は、長田の芸術が、独自の世界を出現させつつあることを予感させてくれる。日常的にありふれたモノ、とりたてて注意を払われないモノ、そうしたモノをモチーフとする長田の作品は、モノが自立して存在する世界という感覚を醸し出しており、その感覚は、ボードリヤールによるモノについての記述を想起させるだろう。

「モノはまるで情熱を授けられているように私には思えた。すくなくとも、固有の生命をもち、使用されるモノという受動性からぬけだして、ある種の自立性を獲得し、おそらく、モノを支配できると確信しすぎている主体に復讐する能力を手に入れていると思えた。モノはこれまで、じっと動かずに沈黙する宇宙そのものであり、それを生産したという口実で人間が自由に使えるとみなされてきた。だが、私にとっては、この宇宙は、使用されるモノの範囲を越えて、みずから何か語るべきことがらを持つ宇宙だった。モノの宇宙は、何ごともそう単純にはすまない記号の支配権に入りこんだ。なぜなら、記号とはつねに事物の消滅のことだからである。モノが指示するのは、それゆえ現実世界であると同時に、現実世界の不在—-とくに主体の不在—-でもある。」[1]

 ここで語られていることは、長田がモチーフとするモノについての記述として読むことが可能だろう。ならば、長田の作品は、まさしく、「モノの宇宙」を出現させようとしている。特筆すべきは、この引用の最後の「現実世界の不在—-とくに主体の不在—-」という指摘である。長田の作品を見ている時に、作者の存在は、ほとんど無化されている。作品の制作者である長田奈緒という「主体の不在」。また、長田の作品を見ている時に、私が見ているという感覚も、極めて希薄である。作品の鑑賞者である私という「主体の不在」。長田の作品から感じられる「驚きが持続する感覚」は、制作においても、鑑賞においても、「主体の不在」が感じられ、その経験から「現実世界の不在」さえもが指示されていることに、導かれている。

 ここまでの議論は、長田がモチーフとしているモノについてのものである。しかし、長田の作品は、モノそのものではなく、対象となるモノを忠実に再現した「なにか」である。だから、長田の作品を見ることに注目し、長田が再現する「なにか」について考えなければならい。端的に言えば、長田の作品と遭遇した時の驚きの感覚は、「見る(こと)」と「見えている(なにか)」の相違に由来する。例えば、乾燥剤をモチーフとした作品は、同じ製品であっても、個体ごとに違いがあること、同じ個体でも、その時々で変化があることを、示している。長田の作品においては、デザインや文字など、製品としての乾燥剤に付与されている記号的な視覚情報のみではなく、個体ごとの形状や質感など、物体としての存在様態までもが、刷られている。
 つまり、「刷られている(なにか)」である長田の作品に向き合う時には、「見る(こと)」という能動的な行為に至る以前の、「見えている(なにか)」が、経験されるのである。しかしながら、「刷られている(なにか)」に向き合う経験は、「見えている(なにか)」を感受することにとどまらず、不可避的に、「見る(こと)」という能動的な行為を起動させる。視覚情報が知覚を経由して意味や認識へと至り、製品としての乾燥剤が想起される。そのとき、各個体の個別性は捨象され、同じ製品としての「同一性」が認識を支配する。しかし、向き合っているのは、製品としての乾燥剤ではなく、長田の作品なのであり、ひとつひとつのモノとしての存在様態が、個体の個別性を際立たせ、視覚を経由する知覚が、それぞれの個体の「特定」を可能にする。
 作品の対象が量産品であるとしても、作品化にあたり、その量産品が複製されているとしても、それがどうしたのだ、と言わんばかりに、長田の作品は、ひとつひとつが、個体としての個別性を主張している。これはこれ、それはそれ、というように。このように、長田の作品において、「刷られている」のは「見えている(なにか)」である。そして、「刷られている(なにか)」が出現させる「見えている(なにか)」は、「見る(こと)」という機能を起動しようとする。しかし、モノから長田の作品が出現する過程は不可逆的であり、対象となったモノを「見る(こと)」には永遠に到達せず、起動したはずの「見る(こと)」は、その機能を十全に果たすことができないまま、「見えている(なにか)」との往還を繰り返すしかない。驚きの持続とは、このような、果てることのない、視覚と認識の往還のことでもあるだろう。

 別な例をあげよう。例えば、ブックカバーをモチーフとする〈book wrapper〉(2021)のシリーズ(このシリーズはインクジェット・プリントによる)。このシリーズでは、書店が提供する紙のブックカバーが、一枚の紙として再現されているように見える。しかし、「ブックカバーというモノが複製されている」のではない。本の表紙を包むように両端が折り曲げられ、本が不在の状態で自立している作品において、そのような状態で自立している「ブックカバーを見ることが複製されている」。しかし、この記述は正確ではない。まず、「複製」は、「ブックカバーというモノ」の「複製」との対比から導かれているに過ぎず、不正確である。「見ること」が作品のモチーフである場合、モノのように「複製」のもとになるオリジナルな事象は、存在していない。
 次に、「見ること」も不正確である。この作品のモチーフは、「ブックカバーを見ること」ではなく、「ブックカバーが見えている状態」である。「見る」という能動的な行為は、「見えている」情報を、文字、デザイン、形状、素材などの読み取りや、自立しているという状態の読み取りへと接続してしまう。「見ること」を対象とする作品化はデッサンや絵画に近似するが、長田は、そうではなく、視覚情報が意味や認識へと接続される以前の「見えている(なにか)」を作品化の対象とする。従って、「ブックカバーを見ることが複製されている」という記述を「ブックカバーが見えている状態がモチーフとなっている」へと改めなくてはならない。
 そして、そのような作品化は、デッサンや絵画よりも写真に近似し、長田の制作に介在する、写真を撮影する工程の重要さを浮き上がらせる。ならば、モノについて、イメージについて、そして、写真について、深い洞察を示した、ボードリヤールの言葉が、再び想起されるのは、必然的なことなのだろう。

「ずっと以前から、われわれは、われわれ人間なしで進行する世界という奥深い幻覚を抱いているのではないだろうか。人間的な、あまりにも人間的なあらゆる意思から逸れて、われわれ人間のいない状態の世界を見たいという、詩的誘惑を感じているのではないだろうか。詩的言語の強烈な快楽とは、言語がそれ自体によって、その物質性、その文字性をつうじて、意味を経由せずに機能するのを見とどけることである—-そのことが、われわれを魅了する。」[2]

 ここで、最後の一文を、長田の作品についての記述として、以下のように読んでみたい誘惑にかられる。

「長田奈緒の芸術の強烈な快楽とは、イメージがそれ自体によって、その物質性、その平面性をつうじて、意味を経由せずに機能するのを見とどけることである—-そのことが、われわれを魅了する。」

 「意味を経由せずに機能する」という記述は、今回の個展において発表される新作の本質を言い当てているように感じられる。「少なくともと一つの」と題された今回の個展において発表される〈Printed sprayed paints〉(2022)は、これまでの作風とはやや異なる印象をもたらすだろう。壁に立てかけられた数枚の木板には、スプレーによるペイントが見える。しかし、スプレーによるペイントと見えるその色彩は、シルクスクリーンによって刷られたものである。スプレーによるペイントは長田自身の手によるものであり、その点は、既存のモノをモチーフとしてきたこれまでの作品と異なる。しかし、長田は、今回のモチーフが自身の手によるものであることに過剰な意味を持たせておらず、他人の手によるスプレーのペイントも許容される。ならば、今回のモチーフの設定は、長田の作品が既存のモノに依存してはいないことを示しているのだろう。
 何枚かの木板が、重なるように壁に立てかけられているが、前の板に覆い隠されている領域にも、スプレーによるペイントが刷られている。まるで、スプレーのペイントが、複数の木版を浸透しているかのようである。木板はアクリル板のように感じられ、視覚的な透明性が感受される。さらに、木版が透明なパネルと化してしまう感覚にとどまらず、その透明なパネルが、布のように、重なり合うパネルへと、スプレーの噴霧を浸透させているように感じられる。視覚的な透明性と物質的な浸透性が感受され、スプレーの噴霧という痕跡だけが、複数の板状の物体をものともせず、見えてくる。この時、視覚的な透明性と、物質的な浸透性が、まさに、「意味を経由せずに機能する」。このような感覚は、痕跡の複製としての今回の新作が、これまでの長田の作品と通底しており、さらなる進化と深化を予感させるものであることを示している。

 長田の作品に向き合うと、その作品が存在を許容される世界を体験する。現実世界において、現実の時間と空間の中で、私自身の身体と精神を駆使している以上、長田の作品が存在を許容される世界を、私はすでに経験しており、その世界の存在を、確かな手応えとともに、実感している。しかし、私は、この現実世界から、長田の作品が存在を許容される世界へと移行してしまうわけではない。現実の世界に存在しながら、芸術の世界を経験するのである。「刷られている(なにか)」から感受される「見えている(なにか)」、その(なにか)について考えるために、最後に、もう一度、ボードリヤールの最晩年の言葉に、耳を傾けてみよう。長田の作品に「刷られている(なにか)」、長田の芸術に向き合うことから感受される「見えている(なにか)」と、以下の記述においてボードリヤールが執拗に暴き出そうとしている「何か」を、ショートさせながら。
 
 「真実あるいは現実性のほかに、最後のところで何かがわれわれに抵抗する。
 何かが、原因と結果の連鎖のなかに世界を閉じこめようとするわれわれのあらゆる努力に抵抗する。
 現実性の外部というものが存在している(だが、ほとんどの文化にはこの概念さえない)。それはいわゆる「現実的な」世界以前の何か、還元不可能な何かであり、始原の幻想に結びつき、また、あるがままの世界にどんなものであれ究極的な意味を与えることの不可能性に結びついている。」[3]

[1]ジャン・ボードリヤール『パスワード』塚原史訳, NTT出版, 2003年, 14-15頁。

[2]ジャン・ボードリヤール『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』塚原史訳, 筑摩書房, 2009年, 34頁。

[3]ジャン・ボードリヤール『悪の知性』塚原史・久保昭博訳, NTT出版, 2008年, 36-37頁。

※本稿のタイトルにおける(なにか)という表記は、長田による前回の個展(Maki Fine Arts, 2020)のタイトル「大したことではない(なにか)」をふまえている。

長田奈緒 |Nao Osada
1988年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。主な個展として、「I see…」NADiff Window Gallery(2022年)、「大したことではない(なにか)」Maki Fine Arts(2020年)、「息を呑むほどしばらく」Open Letter(2018年)。グループ展に「感性の遊び場」ANB Tokyo(2022年)、「Shibuya Hikarie Contemporary Art Eye Vol.15 3人のキュレーション:美術の未来」渋谷ヒカリエ CUBE(2021年)、「Encounters in Parallel」ANB Tokyo(2021年)、「アレックス・ダッジ、末永史尚、長田奈緒 by Maki Fine Arts」CADAN有楽町(2021年)、「描かれたプール、日焼けあとがついた」東京都美術館(2020年)など。

Group Show – 白川昌生 | 末永史尚 | 城田圭介 | 加納俊輔 | ショーン・ミクカ

末永史尚 | Fuminao Suenaga
Search Results
2022年
Acrylic, pigment on cotton, panel
48.5x 63.5cm

Maki Fine Artsでは6月25日(土)より7月24日(日)まで、5名のアーティストによるグループショーを開催します。新作・近作を発表いたします。是非ご高覧ください。

白川昌生 | Yoshio Shirakawa
1948 年福岡県生まれ。1981 年デュッセルドルフ国立美術大学卒業。近年の主な展示として、「エネアデスのほうへ」(2022年/rin art association)、個展「夏の光」(2019年 / Maki Fine Arts)、「百年の編み手たち – 流動する日本の近現代美術 – 」(2019 年/東京都現代美術館)、個展「制作過程」(2018 年/rin art association)、「メルド彫刻の先の先(白川昌生キュレーション)」(2018 年/Maki Fine Arts)、「ミュージアムとの創造的対話 vol.1 – MONUMENT」(2017 年/鳥取県立博物館)、「あいちトリエンナーレ 2016 – 虹のキャラヴァンサライ」(2016 年)、個展「資本空間 -スリー・ディメンショナル・ロジカル・ピクチャーの彼岸 vol.7 白川昌生」(2016 年/galleryαM)、個展「ダダ、ダダ、ダ 地域に生きる想像☆の力」(2014 年/アーツ前橋)など。

末永史尚 | Fuminao Suenaga
1974 年山口生まれ。1999 年東京造形大学造形学部美術学科美術 I 類卒業。近年の主な展覧会として、個展「ピクチャーフレーム」(2020年/Maki Fine Arts)、「アートセンターをひらく (第 I 期 第II期)」(2019 -2020年/ 水戸芸術館 現代美術ギャラリー)、「百年の編み手たち – 流動する日本の近現代美術 – 」(2019 年/東京都現代美術館)、「MOTコレクション ただいま / はじめまして」(2019年/東京都現代美術館)、個展「サーチリザルト」(2018 年/ Maki Fine Arts)、「引込線 2017」(2017年/ 旧所沢市立第2学校給食センター)、「APMoA Project, ARCH vol. 11 末永史尚「ミュージアムピース」(2014 年 / 愛知県美術館展示室 6)、「開館 40 周年記念 1974 第 1部 1974 年に生まれて」(2014 年 / 群馬県立近代美術館)など。

城田圭介 | Keisuke Shirota
1975 年神奈川県生まれ、2003年東京藝術大学大学院美術研究科デザイン専攻修了。近年の主な展覧会として、個展「Out of the frame」(2022年/ Maki Fine Arts)、個展「Over」(2021年 / Maki Fine Arts)、個展「写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS」(2019年-2020年/茅ヶ崎市美術館)、個展「Tracing / Background」(2013年 / ベイスギャラリー)、「シェル美術賞 アーティスト セレクション」(2013年/ 国立新美術館)、「フォトリファレンス・写真と日本現代美術」(2012年/ベオグラード文化センター)、個展(2010年/ギャラリー・ステファン・ルプケ)など。

加納俊輔 | Shunsuke Kano
1983年大阪生まれ。2010年 京都嵯峨芸術大学大学院芸術研究科修了。近年の主な展覧会として、個展「サンドウィッチの隙間」(2021-22年 / 京都市京セラ美術館 ザ・トライアングル)、個展「滝と関」(2021年/ Maki Fine Arts)、個展「圧縮トレーニング」(2021年 / clinic)、個展「カウンタープログラム」(2020年 / Art – Space TARN)、個展「第8回 shiseido art egg 『加納俊輔 | ジェンガと噴水』」(2021年 / 資生堂ギャラリー)、「VOCA展2017 現代美術の展望─新しい平面の作家たち」(2017年 / 上野の森美術館)、「これからの写真」(2014年 / 愛知県美術館)など。THE COPY TRAVELERSのメンバーとしても活動。

ショーン・ミクカ | Sean Micka
1979年アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン生まれ。現在、ブルックリン(ニューヨーク)在住。
ホイットニー美術館のインデペンデントスタディープログラムに参加(2012-2013年、 2013-2014年)。近年の主な展示として、「Fine Silver and Extraordinary Diamonds from the Estate of an Important Collection」(2019年 / Josee Bienvenu Gallery)、「People Who Work Here」 (2019年/ CFCP & David Zwiner Gallery OVR)、「Edges, Corners, Shadows」(2018年 / Three Star Books)、「Condition Report: Deregulation」(2014年 / Abron Arts Center)など。

城田圭介 「Out of the frame」

城田圭介 | Keisuke Shirota
Seashore
2021-2022年
Photograph and oil on canvas board mounted on wood frame
55×71.5cm

Maki Fine Artsでは3月26日(土)より4月24日(日)まで、城田圭介 個展「Out of the frame」を開催いたします。写真と絵画を組み合わせた作品を制作する城田圭介。2019年には茅ヶ崎市美術館で個展「写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS」が開催されました。Maki Fine Artsでは2回目の個展となる本展では、スナップ写真を用いて、その周囲に拡張するイメージを描き加えた新作を展示いたします。2003年頃より制作を開始した、代表的作品「A Sense of Distance」を基礎としていますが、新作は2つの写真が重なり合うズレを生み出したり、「余白(フレーム)を描く」ことで、見る行為そのものの不確実性を意識させながら、写真と絵画の複雑な関係性のあり方を示唆しています。是非ご高覧ください。

Out of the frame

一葉の写真、ひとつの画像をみつめながら、そのフレームには収まっていない別の可能性が頭を過る。
写真を撮る、シャッターを押すというのはひとつの選択だ。決定的瞬間を撮ろうなどと気構えずとも、あるいは退屈で凡庸な日常を撮るにしても、写真に残さないという選択を除けば画像を得るにはシャッターを押す他ない。
撮影行為はその巧拙にかかわらず、ある瞬間にあるフレーミングを選択することだが、それは裏返せば写真に撮られなかった、選択されなかった無数の瞬間とフレーミングを同時につくり出してしまうことと一体ではないか。ほとんど無尽蔵に撮影可能な今日のデジタル機器やスマートフォンを用いても、その思いは拭えないどころか益々増幅されているように思う。撮られた写真を見返す時間は、その選択からこぼれ落ちた異なる可能性に向き合う時間にも思えてくる。

撮られなかった別の選択肢、選ばれていたかもしれない別のフレーム。キャンバスの有限のフレームとも折り合いをつけながら、異なる可能性へのアクセスとして写真の周囲に絵筆を加えていく。写真に忠実であろうとすればするほど写真/身体、写真/絵画、記録/記憶などの落差は手触りを増す。いうまでもなく、描かれたフィールドも無数の選択肢から選ばれた一つの可能性に他ならない。

城田圭介

城田圭介 | Keisuke Shirota
1975 年神奈川県生まれ、2003年東京藝術大学大学院美術研究科デザイン専攻修了。近年の主な展覧会として、個展「Over」(2021年 / Maki Fine Arts)、「写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS」(2019年-2020年/茅ヶ崎市美術館)、個展「Tracing /Background」(2013年 / ベイスギャラリー)、「シェル美術賞 アーティスト セレクション」(2013年/ 国立新美術館)、「フォトリファレンス・写真と日本現代美術」(2012年/ベオグラード文化センター)、個展(2010年/ギャラリー・ステファン・ルプケ)など。