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平野真美「空想のレッスン」

蘇生するユニコーン
2014年
樹脂、シリコン、毛、電動ポンプ、エアーコンプレッサー他
165 x 138 x 50 cm
Maki Fine Artsでは2月4日(土)より3月5日(日)まで、平野真美 個展「空想のレッスン」を開催いたします。
これまで平野は、病気で衰弱した愛犬の身体の大きさや骨格などを正確に再現した作品「保存と再現」(2013年)や、亡くなった愛犬の遺骨が納められた骨壺をCTスキャンし、3Dプリンタで出力した遺骨を硝子や陶磁に作品化した「変身物語」(2018年~)などを発表してきました。それらの作品は、慈悲的で、死への眼差しを伴った観察の記録であり、失った存在を受容するためのセルフ・リフレクションともいえます。
Maki Fine Artsでは初めての個展となる本展では、2014年から現在進行形で取り組む作品「蘇生するユニコーン」の、新たな実践のプロセスが提示されます。想像上の生物であるユニコーンの実在化を試み、骨格・内臓・筋肉・皮膚などを緻密に制作、肺と心臓に生命維持装置をつなぎ合わせ、まるで生命を宿したかのような存在として出現させます。本展ではユニコーンに加えて、その身体の深部までを辿り、表皮、臓器、神経、血管、筋肉、骨格の設計図を展示します。拡張し続ける、平野のライフワークとしてのプロジェクトを是非ご覧ください。
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転生と解剖:平野真美にみる「科学と魔術」の衝突を巡って
高橋洋介(キュレーター)
骨格や皮膚、血管、内臓など身体のあらゆる部位を樹脂やガラス、金属などの人工物で模造することで、平野真美は実在しない空想上の生物や死んでしまった動物を擬似的に現実に甦らせ、「いまこの時代に生きることの手触り」を問いかけてきた。死に近づいていく寝たきりの愛犬を、剥製のように精巧に再現したデビュー作《保存と再現》(2014)が、愛する家族の一員の命を現世になんとか止めようとする蘇生の儀式であったとするなら、前作の《変身物語》(2020)は、その続編として、工学的にスキャンされた愛犬の骨格をパート・ド・ドヴェールという古代のガラス工芸の技法で鋳造し、失われてしまった愛しき関係や記憶をいかに失わずにいられるのか、死を恐るべきものとしてではなく日常の延長に生者を見守るようなものへといかに組み替えることができるのかが模索されている。
両作の狭間で開始された本作《蘇生するユニコーン》は、古代の神話上にしか存在しない架空の生物である「一角獣」を、外見—-眼球、鬣、皮膚、蹄など—-のみならず、骨格、臓器、血管といった見えない部位まで作り込むことで、まるでフィクションが現実であるかのように錯覚する体験を生み出している。一見すれば、本作は、我々が大人になるにつれて失ってきたファンタジーの世界の回復であり、近代以降、愚蒙として捨て去ってきた神話的な想像力の復権として解釈できる。
しかし、よく見れば、解剖台の上のユニコーンは内臓剥き出しで横たわり、輸血され、心電図で心拍数を確認されるほどの、瀕死の状態である。それは、むしろ現代において神話的な想像力が死に絶えかけていることの隠喩と理解できる。つまり、かつて神話や宗教の物語は世界の成り立ちや謎を説明するものとして機能してきたが、実験と数量化に裏打ちされた現代の科学の合理的な説明を前に、もはや神話的想像力で世界を説明することは迷信に満ちた怪しいものに変わってしまった。神話や宗教は客観性を欠いたオカルトへと失墜し、私たちはユニコーンが実在すると欠片も信じることはできなくなってしまった。極限すれば、本作は科学によって解剖された瀕死の「前近代性」の象徴なのだと。
にもかかわらず、消え失せゆく神話的な想像力を、なぜ平野はその死の淵から救い出そうとするのか。しかも、途方もない労力をかけて。アメリカの哲学者モリス・バーマンは、原子炉やコンピュータ、遺伝子工学など科学の合理性が世界中に浸透してあらゆるものを支配・管理すればするほど、人間は、狂気、空想、夢、神話、象徴、魔術のような非合理なものを必要とすると述べ、その社会/精神の構造こそが、シュルレアリズムやダダのような芸術を我々が必要とした理由だと分析した。*1 サルバドール・ダリは溶けていく時計によって直線的で機械論的な合理的な時間を否定し、ルネ・マグリットは瓶と人参を相似的に融合させることで理性では理解できない感性の理を表したが、平野もまたそのような科学の合理性の裏側にあるものを芸術によって探求していく作家として位置づけられるだろう。シュルレアリズムは「ミシンと蝙蝠傘との解剖代の上での偶然の出会い」のような美しさ、つまり、ミシンや傘といった「日常的なオブジェ」が本来とは違う文脈に移されることで生まれる違和感ともなった新しい美しさ(デペイズマン/異化効果)を探求したが、平野の「解剖台の上で生々しい臓器を露わにするユニコーン」においては、20世紀のありきたりな既製品(レディメイド)を援用する手法は棄却され、ユニコーンという前近代の「非日常的なモチーフ」が工芸的ともいえる精緻な造形技術と解剖学の援用によって近代的な現実の文脈へと挿入される。バーマンの議論は、単に近代社会に抑圧された人間の諸問題は前近代の価値観へ回帰すれば解決するという話ではなく、むしろ、近代性が捨て去った神話的な想像力とは、生物としての人間の最下層に根差した初源的な認識の形態であり、自我以前の未発達な文明の認識というより、むしろ科学的な世界観が築かれた後でさえ、人間の存在の根本的な土台をなすほどに欠くことができないものだと強調した。それを踏まえるなら、ユニコーンの復活が、魔術ではなく、神話を殺した科学ー輸血器具、心電図、解剖台などーによってなされるという本作の逆説は、むしろ、前近代的な神話的想像力を維持したまま、いかに近代の問題は超克できるのか、という問いとして変換されるべきだろう。あるいは、人工知能が絵を描き、音楽を作曲し、車を運転し、サソリの毒を持ったジャガイモやクラゲの遺伝子で発光するウサギがいるような現代を見渡すなら、SF小説家アーサー・C・クラークが予言したように「高度に発達した科学はもはや魔法と区別できない」世界が到来する予兆として。
しかし、加えるなら、前作の愛犬の骨格理解がユニコーンの造形に応用されていることは、本作が平野の家族とも言える動物との絆から生まれてきていることを意味する。これを人生の伴侶たる動物を神獣へと転生させる行為として捉えるなら、本作は、愛するものの時を超えた転生への願いであり、人間以外の生命への敬意の表現とも言えるだろう。日本の哲学者の奥野克己はアイヌ文化の熊送りの儀礼を通して「表層的な現実を生きる人間の日常だけでは掴み取ることが困難な、言語以前の外部世界に触れること」や「他の生命への感受性」こそアニミズムの精髄と結論づけたが、私たちは、ここにもそのような「今日のアニミズム」を実践する21世紀の芸術の可能性の一端を見ることができる。*2 あらゆるものを数量化し、操作可能なものに変え、人間の意志を強制し、過剰に人間中心主義的な方向へ堕ちていく世界の中で、人間がたとえ神のような力を得たとしても、それを人間以外の生命を敬い、その傲慢さを抑えるような方向へと反転させよ。その態度にこそ、時代の常識を打ち破る芸術の本質が宿っているのだ、と。
*1 モリス・バーマン著 柴田元幸訳「デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化」国文社、1989
*2 奥野克己+清水高志「今日のアニミズム」以文社、2021
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平野真美 | Mami Hirano
1989年 岐阜県出身。2014年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程先端藝術表現専攻修了。
闘病する愛犬や、架空の生物であるユニコーンなど、対象とする生物の骨や内臓、筋肉や皮膚など構成するあらゆる要素を忠実に制作することで、実在・非実在生物の生体構築、生命の保存、または蘇生に関する作品制作を行う。不在と死、保存と制作、認知と存在に関する思索を深め、現代の私たちはいかにそれらと向き合うのかを問いかける。
主な発表に「ab-sence/ac-cept 不在の観測」(岐阜県美術館、2021)、「2018年のフランケンシュタイン バイオアートにみる芸術と科学と社会のいま」(EYE OF GYRE、2018)、「平野真美 個展 変身物語METAMORPHOSES」(3331 Arts Chiyoda、2021)など。









長田奈緒「少なくとも一つの」

Printed sprayed paints
2022年
木材、シルクスクリーン
61 x 49.5 x 17 cm
Maki Fine Artsでは9月17日(土)より11月6日(日)まで、長田奈緒 個展「少なくとも一つの」を開催します。Maki Fine Artsでは約2年ぶり、2回目の個展となります。是非ご覧ください。
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「刷られている(なにか)」と「見えている(なにか)」-長田奈緒の芸術
梅津元(芸術学)
キャンディが取り出され、包装という役目を終え、後は廃棄を待つだけの、取るに足らない、なにか。初めて実見した長田奈緒の作品《Candy wrapper(LIETTA LIGHT) 》(2019)は、その「なにか」を、ポリエチレンにシルクスクリーンという技法によって再現した作品だった。容易には見つけられず、ようやく発見した時には、はっと息を飲むような瞬間が訪れた。さりげなく、つつましい佇まいに見えながら、これが作品なのだと了解してからも、驚きの感覚が持続し、見れば見るほど、確固たる作品世界が打ち立てられていることに、心底驚かされることになった。これが作品なのかという驚き。対象を忠実に再現する技術に対する驚き。作者の介入がまるで無化されているように見えることへの驚き。それだけではない、「なにか」への驚き。
そうした驚きは、優れた芸術作品と遭遇した時の感覚と共通する側面もある。しかし、それ以後、長田の作品を実見する機会を重ねる度に確かに得られる「驚きが持続する感覚」は、長田の芸術が、独自の世界を出現させつつあることを予感させてくれる。日常的にありふれたモノ、とりたてて注意を払われないモノ、そうしたモノをモチーフとする長田の作品は、モノが自立して存在する世界という感覚を醸し出しており、その感覚は、ボードリヤールによるモノについての記述を想起させるだろう。
「モノはまるで情熱を授けられているように私には思えた。すくなくとも、固有の生命をもち、使用されるモノという受動性からぬけだして、ある種の自立性を獲得し、おそらく、モノを支配できると確信しすぎている主体に復讐する能力を手に入れていると思えた。モノはこれまで、じっと動かずに沈黙する宇宙そのものであり、それを生産したという口実で人間が自由に使えるとみなされてきた。だが、私にとっては、この宇宙は、使用されるモノの範囲を越えて、みずから何か語るべきことがらを持つ宇宙だった。モノの宇宙は、何ごともそう単純にはすまない記号の支配権に入りこんだ。なぜなら、記号とはつねに事物の消滅のことだからである。モノが指示するのは、それゆえ現実世界であると同時に、現実世界の不在—-とくに主体の不在—-でもある。」[1]
ここで語られていることは、長田がモチーフとするモノについての記述として読むことが可能だろう。ならば、長田の作品は、まさしく、「モノの宇宙」を出現させようとしている。特筆すべきは、この引用の最後の「現実世界の不在—-とくに主体の不在—-」という指摘である。長田の作品を見ている時に、作者の存在は、ほとんど無化されている。作品の制作者である長田奈緒という「主体の不在」。また、長田の作品を見ている時に、私が見ているという感覚も、極めて希薄である。作品の鑑賞者である私という「主体の不在」。長田の作品から感じられる「驚きが持続する感覚」は、制作においても、鑑賞においても、「主体の不在」が感じられ、その経験から「現実世界の不在」さえもが指示されていることに、導かれている。
ここまでの議論は、長田がモチーフとしているモノについてのものである。しかし、長田の作品は、モノそのものではなく、対象となるモノを忠実に再現した「なにか」である。だから、長田の作品を見ることに注目し、長田が再現する「なにか」について考えなければならい。端的に言えば、長田の作品と遭遇した時の驚きの感覚は、「見る(こと)」と「見えている(なにか)」の相違に由来する。例えば、乾燥剤をモチーフとした作品は、同じ製品であっても、個体ごとに違いがあること、同じ個体でも、その時々で変化があることを、示している。長田の作品においては、デザインや文字など、製品としての乾燥剤に付与されている記号的な視覚情報のみではなく、個体ごとの形状や質感など、物体としての存在様態までもが、刷られている。
つまり、「刷られている(なにか)」である長田の作品に向き合う時には、「見る(こと)」という能動的な行為に至る以前の、「見えている(なにか)」が、経験されるのである。しかしながら、「刷られている(なにか)」に向き合う経験は、「見えている(なにか)」を感受することにとどまらず、不可避的に、「見る(こと)」という能動的な行為を起動させる。視覚情報が知覚を経由して意味や認識へと至り、製品としての乾燥剤が想起される。そのとき、各個体の個別性は捨象され、同じ製品としての「同一性」が認識を支配する。しかし、向き合っているのは、製品としての乾燥剤ではなく、長田の作品なのであり、ひとつひとつのモノとしての存在様態が、個体の個別性を際立たせ、視覚を経由する知覚が、それぞれの個体の「特定」を可能にする。
作品の対象が量産品であるとしても、作品化にあたり、その量産品が複製されているとしても、それがどうしたのだ、と言わんばかりに、長田の作品は、ひとつひとつが、個体としての個別性を主張している。これはこれ、それはそれ、というように。このように、長田の作品において、「刷られている」のは「見えている(なにか)」である。そして、「刷られている(なにか)」が出現させる「見えている(なにか)」は、「見る(こと)」という機能を起動しようとする。しかし、モノから長田の作品が出現する過程は不可逆的であり、対象となったモノを「見る(こと)」には永遠に到達せず、起動したはずの「見る(こと)」は、その機能を十全に果たすことができないまま、「見えている(なにか)」との往還を繰り返すしかない。驚きの持続とは、このような、果てることのない、視覚と認識の往還のことでもあるだろう。
別な例をあげよう。例えば、ブックカバーをモチーフとする〈book wrapper〉(2021)のシリーズ(このシリーズはインクジェット・プリントによる)。このシリーズでは、書店が提供する紙のブックカバーが、一枚の紙として再現されているように見える。しかし、「ブックカバーというモノが複製されている」のではない。本の表紙を包むように両端が折り曲げられ、本が不在の状態で自立している作品において、そのような状態で自立している「ブックカバーを見ることが複製されている」。しかし、この記述は正確ではない。まず、「複製」は、「ブックカバーというモノ」の「複製」との対比から導かれているに過ぎず、不正確である。「見ること」が作品のモチーフである場合、モノのように「複製」のもとになるオリジナルな事象は、存在していない。
次に、「見ること」も不正確である。この作品のモチーフは、「ブックカバーを見ること」ではなく、「ブックカバーが見えている状態」である。「見る」という能動的な行為は、「見えている」情報を、文字、デザイン、形状、素材などの読み取りや、自立しているという状態の読み取りへと接続してしまう。「見ること」を対象とする作品化はデッサンや絵画に近似するが、長田は、そうではなく、視覚情報が意味や認識へと接続される以前の「見えている(なにか)」を作品化の対象とする。従って、「ブックカバーを見ることが複製されている」という記述を「ブックカバーが見えている状態がモチーフとなっている」へと改めなくてはならない。
そして、そのような作品化は、デッサンや絵画よりも写真に近似し、長田の制作に介在する、写真を撮影する工程の重要さを浮き上がらせる。ならば、モノについて、イメージについて、そして、写真について、深い洞察を示した、ボードリヤールの言葉が、再び想起されるのは、必然的なことなのだろう。
「ずっと以前から、われわれは、われわれ人間なしで進行する世界という奥深い幻覚を抱いているのではないだろうか。人間的な、あまりにも人間的なあらゆる意思から逸れて、われわれ人間のいない状態の世界を見たいという、詩的誘惑を感じているのではないだろうか。詩的言語の強烈な快楽とは、言語がそれ自体によって、その物質性、その文字性をつうじて、意味を経由せずに機能するのを見とどけることである—-そのことが、われわれを魅了する。」[2]
ここで、最後の一文を、長田の作品についての記述として、以下のように読んでみたい誘惑にかられる。
「長田奈緒の芸術の強烈な快楽とは、イメージがそれ自体によって、その物質性、その平面性をつうじて、意味を経由せずに機能するのを見とどけることである—-そのことが、われわれを魅了する。」
「意味を経由せずに機能する」という記述は、今回の個展において発表される新作の本質を言い当てているように感じられる。「少なくともと一つの」と題された今回の個展において発表される〈Printed sprayed paints〉(2022)は、これまでの作風とはやや異なる印象をもたらすだろう。壁に立てかけられた数枚の木板には、スプレーによるペイントが見える。しかし、スプレーによるペイントと見えるその色彩は、シルクスクリーンによって刷られたものである。スプレーによるペイントは長田自身の手によるものであり、その点は、既存のモノをモチーフとしてきたこれまでの作品と異なる。しかし、長田は、今回のモチーフが自身の手によるものであることに過剰な意味を持たせておらず、他人の手によるスプレーのペイントも許容される。ならば、今回のモチーフの設定は、長田の作品が既存のモノに依存してはいないことを示しているのだろう。
何枚かの木板が、重なるように壁に立てかけられているが、前の板に覆い隠されている領域にも、スプレーによるペイントが刷られている。まるで、スプレーのペイントが、複数の木版を浸透しているかのようである。木板はアクリル板のように感じられ、視覚的な透明性が感受される。さらに、木版が透明なパネルと化してしまう感覚にとどまらず、その透明なパネルが、布のように、重なり合うパネルへと、スプレーの噴霧を浸透させているように感じられる。視覚的な透明性と物質的な浸透性が感受され、スプレーの噴霧という痕跡だけが、複数の板状の物体をものともせず、見えてくる。この時、視覚的な透明性と、物質的な浸透性が、まさに、「意味を経由せずに機能する」。このような感覚は、痕跡の複製としての今回の新作が、これまでの長田の作品と通底しており、さらなる進化と深化を予感させるものであることを示している。
長田の作品に向き合うと、その作品が存在を許容される世界を体験する。現実世界において、現実の時間と空間の中で、私自身の身体と精神を駆使している以上、長田の作品が存在を許容される世界を、私はすでに経験しており、その世界の存在を、確かな手応えとともに、実感している。しかし、私は、この現実世界から、長田の作品が存在を許容される世界へと移行してしまうわけではない。現実の世界に存在しながら、芸術の世界を経験するのである。「刷られている(なにか)」から感受される「見えている(なにか)」、その(なにか)について考えるために、最後に、もう一度、ボードリヤールの最晩年の言葉に、耳を傾けてみよう。長田の作品に「刷られている(なにか)」、長田の芸術に向き合うことから感受される「見えている(なにか)」と、以下の記述においてボードリヤールが執拗に暴き出そうとしている「何か」を、ショートさせながら。
「真実あるいは現実性のほかに、最後のところで何かがわれわれに抵抗する。
何かが、原因と結果の連鎖のなかに世界を閉じこめようとするわれわれのあらゆる努力に抵抗する。
現実性の外部というものが存在している(だが、ほとんどの文化にはこの概念さえない)。それはいわゆる「現実的な」世界以前の何か、還元不可能な何かであり、始原の幻想に結びつき、また、あるがままの世界にどんなものであれ究極的な意味を与えることの不可能性に結びついている。」[3]
註
[1]ジャン・ボードリヤール『パスワード』塚原史訳, NTT出版, 2003年, 14-15頁。
[2]ジャン・ボードリヤール『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』塚原史訳, 筑摩書房, 2009年, 34頁。
[3]ジャン・ボードリヤール『悪の知性』塚原史・久保昭博訳, NTT出版, 2008年, 36-37頁。
※本稿のタイトルにおける(なにか)という表記は、長田による前回の個展(Maki Fine Arts, 2020)のタイトル「大したことではない(なにか)」をふまえている。
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長田奈緒 |Nao Osada
1988年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。主な個展として、「I see…」NADiff Window Gallery(2022年)、「大したことではない(なにか)」Maki Fine Arts(2020年)、「息を呑むほどしばらく」Open Letter(2018年)。グループ展に「感性の遊び場」ANB Tokyo(2022年)、「Shibuya Hikarie Contemporary Art Eye Vol.15 3人のキュレーション:美術の未来」渋谷ヒカリエ CUBE(2021年)、「Encounters in Parallel」ANB Tokyo(2021年)、「アレックス・ダッジ、末永史尚、長田奈緒 by Maki Fine Arts」CADAN有楽町(2021年)、「描かれたプール、日焼けあとがついた」東京都美術館(2020年)など。
Group Show – 白川昌生 | 末永史尚 | 城田圭介 | 加納俊輔 | ショーン・ミクカ

Search Results
2022年
Acrylic, pigment on cotton, panel
48.5x 63.5cm
Maki Fine Artsでは6月25日(土)より7月24日(日)まで、5名のアーティストによるグループショーを開催します。新作・近作を発表いたします。是非ご高覧ください。
白川昌生 | Yoshio Shirakawa
1948 年福岡県生まれ。1981 年デュッセルドルフ国立美術大学卒業。近年の主な展示として、「エネアデスのほうへ」(2022年/rin art association)、個展「夏の光」(2019年 / Maki Fine Arts)、「百年の編み手たち – 流動する日本の近現代美術 – 」(2019 年/東京都現代美術館)、個展「制作過程」(2018 年/rin art association)、「メルド彫刻の先の先(白川昌生キュレーション)」(2018 年/Maki Fine Arts)、「ミュージアムとの創造的対話 vol.1 – MONUMENT」(2017 年/鳥取県立博物館)、「あいちトリエンナーレ 2016 – 虹のキャラヴァンサライ」(2016 年)、個展「資本空間 -スリー・ディメンショナル・ロジカル・ピクチャーの彼岸 vol.7 白川昌生」(2016 年/galleryαM)、個展「ダダ、ダダ、ダ 地域に生きる想像☆の力」(2014 年/アーツ前橋)など。
末永史尚 | Fuminao Suenaga
1974 年山口生まれ。1999 年東京造形大学造形学部美術学科美術 I 類卒業。近年の主な展覧会として、個展「ピクチャーフレーム」(2020年/Maki Fine Arts)、「アートセンターをひらく (第 I 期 第II期)」(2019 -2020年/ 水戸芸術館 現代美術ギャラリー)、「百年の編み手たち – 流動する日本の近現代美術 – 」(2019 年/東京都現代美術館)、「MOTコレクション ただいま / はじめまして」(2019年/東京都現代美術館)、個展「サーチリザルト」(2018 年/ Maki Fine Arts)、「引込線 2017」(2017年/ 旧所沢市立第2学校給食センター)、「APMoA Project, ARCH vol. 11 末永史尚「ミュージアムピース」(2014 年 / 愛知県美術館展示室 6)、「開館 40 周年記念 1974 第 1部 1974 年に生まれて」(2014 年 / 群馬県立近代美術館)など。
城田圭介 | Keisuke Shirota
1975 年神奈川県生まれ、2003年東京藝術大学大学院美術研究科デザイン専攻修了。近年の主な展覧会として、個展「Out of the frame」(2022年/ Maki Fine Arts)、個展「Over」(2021年 / Maki Fine Arts)、個展「写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS」(2019年-2020年/茅ヶ崎市美術館)、個展「Tracing / Background」(2013年 / ベイスギャラリー)、「シェル美術賞 アーティスト セレクション」(2013年/ 国立新美術館)、「フォトリファレンス・写真と日本現代美術」(2012年/ベオグラード文化センター)、個展(2010年/ギャラリー・ステファン・ルプケ)など。
加納俊輔 | Shunsuke Kano
1983年大阪生まれ。2010年 京都嵯峨芸術大学大学院芸術研究科修了。近年の主な展覧会として、個展「サンドウィッチの隙間」(2021-22年 / 京都市京セラ美術館 ザ・トライアングル)、個展「滝と関」(2021年/ Maki Fine Arts)、個展「圧縮トレーニング」(2021年 / clinic)、個展「カウンタープログラム」(2020年 / Art – Space TARN)、個展「第8回 shiseido art egg 『加納俊輔 | ジェンガと噴水』」(2021年 / 資生堂ギャラリー)、「VOCA展2017 現代美術の展望─新しい平面の作家たち」(2017年 / 上野の森美術館)、「これからの写真」(2014年 / 愛知県美術館)など。THE COPY TRAVELERSのメンバーとしても活動。
ショーン・ミクカ | Sean Micka
1979年アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン生まれ。現在、ブルックリン(ニューヨーク)在住。
ホイットニー美術館のインデペンデントスタディープログラムに参加(2012-2013年、 2013-2014年)。近年の主な展示として、「Fine Silver and Extraordinary Diamonds from the Estate of an Important Collection」(2019年 / Josee Bienvenu Gallery)、「People Who Work Here」 (2019年/ CFCP & David Zwiner Gallery OVR)、「Edges, Corners, Shadows」(2018年 / Three Star Books)、「Condition Report: Deregulation」(2014年 / Abron Arts Center)など。
城田圭介 「Out of the frame」

Seashore
2021-2022年
Photograph and oil on canvas board mounted on wood frame
55×71.5cm
Maki Fine Artsでは3月26日(土)より4月24日(日)まで、城田圭介 個展「Out of the frame」を開催いたします。写真と絵画を組み合わせた作品を制作する城田圭介。2019年には茅ヶ崎市美術館で個展「写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS」が開催されました。Maki Fine Artsでは2回目の個展となる本展では、スナップ写真を用いて、その周囲に拡張するイメージを描き加えた新作を展示いたします。2003年頃より制作を開始した、代表的作品「A Sense of Distance」を基礎としていますが、新作は2つの写真が重なり合うズレを生み出したり、「余白(フレーム)を描く」ことで、見る行為そのものの不確実性を意識させながら、写真と絵画の複雑な関係性のあり方を示唆しています。是非ご高覧ください。
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Out of the frame
一葉の写真、ひとつの画像をみつめながら、そのフレームには収まっていない別の可能性が頭を過る。
写真を撮る、シャッターを押すというのはひとつの選択だ。決定的瞬間を撮ろうなどと気構えずとも、あるいは退屈で凡庸な日常を撮るにしても、写真に残さないという選択を除けば画像を得るにはシャッターを押す他ない。
撮影行為はその巧拙にかかわらず、ある瞬間にあるフレーミングを選択することだが、それは裏返せば写真に撮られなかった、選択されなかった無数の瞬間とフレーミングを同時につくり出してしまうことと一体ではないか。ほとんど無尽蔵に撮影可能な今日のデジタル機器やスマートフォンを用いても、その思いは拭えないどころか益々増幅されているように思う。撮られた写真を見返す時間は、その選択からこぼれ落ちた異なる可能性に向き合う時間にも思えてくる。
撮られなかった別の選択肢、選ばれていたかもしれない別のフレーム。キャンバスの有限のフレームとも折り合いをつけながら、異なる可能性へのアクセスとして写真の周囲に絵筆を加えていく。写真に忠実であろうとすればするほど写真/身体、写真/絵画、記録/記憶などの落差は手触りを増す。いうまでもなく、描かれたフィールドも無数の選択肢から選ばれた一つの可能性に他ならない。
城田圭介
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城田圭介 | Keisuke Shirota
1975 年神奈川県生まれ、2003年東京藝術大学大学院美術研究科デザイン専攻修了。近年の主な展覧会として、個展「Over」(2021年 / Maki Fine Arts)、「写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS」(2019年-2020年/茅ヶ崎市美術館)、個展「Tracing /Background」(2013年 / ベイスギャラリー)、「シェル美術賞 アーティスト セレクション」(2013年/ 国立新美術館)、「フォトリファレンス・写真と日本現代美術」(2012年/ベオグラード文化センター)、個展(2010年/ギャラリー・ステファン・ルプケ)など。
池田衆「Traces of Travel」

BerlinerDom, Berlin
2021年
photographic collage, mounted on acrylic
70 x 150 cm
Maki Fine Artsでは2月5日(土)より3月6日(日)まで、池田衆 個展「Traces of Travel」を開催いたします。池田衆は写真を切り抜き、独自の形や空白を画面上に作り出したり、切り抜いた要素をコラージュする手法にて、絵画と写真の間を行き交う作品を発表しています。これまでに、植物や水面などの自然風景や、オリンピック前の都市開発が進む東京の姿を捉えた風景、または果物や花を配置した静物などを作品の題材としてきました。
Maki Fine Artsでは6回目の個展となる本展での新作は、池田が実際に旅をした地で撮影した写真を用いて制作されたものです。ベルリンやパリ、ヘルシンキやロンドンなど、旅の記録として残された写真が、卓越したカッティング技術と重層的に施されたコラージュによって、全く新しい光景へと生まれ変わる瞬間を見ることができます。清々しく、その研ぎ澄まされた画面からは、コロナ禍で失われた時間の感覚を取り戻すような、池田自身が作品に向き合った痕跡を感じられます。是非ご高覧ください。
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旅に行く前のイメージと現地での体験や実感したことは多くの場合、隔たりがあります。旅をするということは今まで見たことがないもの、体験したことがないことを実感することで、見慣れたものが急に新鮮に感じたり、当たり前と思っていたことが、実はそうではないと気付くことが多くあります。
日常から離れてそうした新たな発見や驚き、異文化や考え方の違いに気付くことは旅の醍醐味であり、アート作品を見る感覚に似た何度も体験したくなる魅力をもっています。
2020-22 年は新型コロナウィルスの影響で日常の様々な事柄が制限されました。とりわけ海外旅行は難しく、旅行をして写真を撮るという当たり前だった楽しさが無くなったこと痛感しています。
今回の展示では過去に観光として撮影した写真をベースに作品をつくっています。数年前が遠い昔のようであり、このような状況で旅行写真をたどり制作することは何か意味があるように思えました。
「Traces of Travel 」と題された本展では、旅の痕跡としての写真を使って、光跡や筆跡、破片や余白など何かの存在を示す痕跡が作品の多くに含まれています。
何かが無くなったときに、そのものの大切さや本質が見えてくるように、写真を切り抜き、要素を削ることで写真とは何か、イメージとは何かということがみえてくるのではないかと模索しています。
旅から帰った時、あるいはアート作品を鑑賞した後、それまでの日常が少し違った角度で見えたときそれは良い体験をしたといえるのではないでしょうか。
池田衆
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池田衆 | Shu Ikeda
1979年広島生まれ。2004 年東京造形大学造形学部美術学科絵画専攻 卒業。現在、東京都在住。自然や都市風景を主なモチーフとして、写真を切り抜き、独自の形や空白を画面上に作り出したり、切り抜いた要素をコラージュする手法にて、絵画と写真の間を行き交う作品を発表。これまでの主な展覧会として、個展「Object and Image」(2019年、Maki Fine Arts)、「Sight」(2018年、 六本木ヒルズA/Dギャラリー)、 グループ展「アートがあればII – 9人のコレクターによる個人コレクションの場合」(2013年、東京オペラシティアートギャラリー)など。
鈴木星亜 「All You Need is Surface」

Surface 21_01
2021
キャンバスに油彩
130.3 x 194cm
Maki Fine Artsでは11月20日(土)より12月19日(日)まで、鈴木星亜 個展「All You Need is Surface」を開催いたします。Maki Fine Artsでは2回目の個展となる本展では、これまでの鈴木の代表的な題材である、水面を描いた新作を中心に発表いたします。
鈴木の描く風景の「ゆがみ」は、ユニークな制作プロセスに起因しています。実際の風景を取材する際、カメラにより記録するのではなく、文字によるメモ書きを残します。そのメモ書きの記憶を頼りにして、作品化しますが、キャンバスに構図の下書きをせずに、直接描くという手法によるものです。風景を二次元化する過程において、写真で記録する場合は、撮影時にトリミング(切り取り)されますが、鈴木の制作手法は、事後的にキャンバスの枠内にイメージを押し込め、圧縮するような描写で進めるため、その結果として、自由自在に変換された独自のパースペクティブが生み出されています。水面を白い網目のラインで表現した描写や、樹木や葉っぱの強調された輪郭が、画面に与えるイリュージョンの作用を後押ししています。近年、試みを続けている、画面に皺を作り、凹凸を用いて描く手法も、その実践の延長線上にあります。
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All You Need is Surface
前回の個展のタイトルを決める時に出た「Surface」という言葉がとてもしっくりきた。
物の構造から離れて物体の「Surface」だけを見るときに、それは絵画になるんじゃないか。
私が見るものも「Surface」だろう。中身は見えないから想像するしかない。
誰かの考えも言葉や態度という「Surface」を通してしか分からない。
様々な考えが「Surface」という言葉に集約される感じだ。
そんなことを考えていたら、ビートルズの「All You Need is Love」がふと浮かんだ。小さい頃にアルバムを買って、気に入って聴いていたのだけれど、調べてみると、歌詞をどう解釈するか難しいらしい。僕らには正解は分からない。ジョン・レノンがどう考えていたのか想像するしかない。全ては「Surface」で、「Surface」こそ全てだ。
鈴木星亜
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鈴木星亜 | Seia Suzuki
1986 年東京都生まれ。2012 年多摩美術大学大学院美術研究科博士前期(修士)課程絵画専攻油画研究領域修了。2012 年 VOCA 賞受賞。実際の風景を文章で書きとめ、それをもとに絵を描くという手法で制作し、ものを見て、描くという絵画のプロセスの中で何がおこっているのかを探求している。近年の主な展覧会として、個展「Surface 2014 – 2020 」(2020年 / Maki Fine Arts)グループ展「TOKYO☆VOCA」(2020年 / 第一生命ギャラリー)、個展「絵は私の身体を通して世界を見る」(2018 年 / ギャラリー16)、個展「project N 62 鈴木星亜」(2015 年 / Tokyo Opera City Art Gallery 4F corridor)、個展「水面」(2015 年 / 第一生命ギャラリー)など。
アレックス・ダッジ 「LAUNDRY DAY : IT ALL COMES OUT IN THE WASH」

Laundry Day: Rag No. 59,109 (Neon Carrot)
2021年
oil and acrylic on canvas
31.8 x 41 cm

Laundry Day: Rag No. 58,931 / 59,084 (Spring Bud)
2021年
oil and acrylic on canvas
45.5 x 53 cm

Laundry Day: It All Comes Out In the Wash
2021年
oil and acrylic on canvas
194 x 162 cm
Maki Fine Artsでは9月25日(土)より11月7日(日)まで、アレックス・ダッジ 個展「LAUNDRY DAY : IT ALL COMES OUT IN THE WASH」を開催いたします。日本では約 2 年半ぶり、2 回目の個展となります。本展では、これまでの作品で題材にしてきたニューヨークタイムズ紙などの新聞や印刷物のイメージと、テキスタイルやパターン、衣服や布のイメージが組み合わされた新作ペインティングを発表いたします。是非ご高覧下さい。
二次元と三次元のあいだ
出原 均(兵庫県立美術館 学芸員)
前回のマキファインアーツでの個展「情報のトラウマ」の出品作は、ぐしゃっとつぶされたり、梱包に使われたりした新聞紙や布地が主モチーフだった。いかにも視覚的イリュージョンを刺激する形である。その歪みと基本の形との差から私たちの脳が三次元性をはじき出すわけだ。キャンバスの上に背景なしで、それだけが描かれたモチーフは、しかも、いくらか厚みを感じさせる。油彩絵具は塗り重ねられたり、厚く塗られたりしているので(その上に文字や模様がステンシルで転写される)、新聞や布の三次元イリュージョンが多少肉付けされたように見える。しかし、よく視るなら、絵具の盛り上げの中には、新聞の見かけの凹凸などには沿わないものや、その土台であるキャンバスの平面性を喚起させるものがあり、けっしてイリュージョンの増幅に還元されるわけでなく、一様ではない。それゆえ、三次元(厚み)と二次元(三次元イリュージョン)、両方の知覚の間で私たちの眼差しはさまようことになる。二つの知覚の差異という視覚芸術の普遍的な問題が、この小世界で展開されているのだ。緻密な計算と柔軟な付置によって編み上げられた絵画というべきだろう。
アレックス・ダッジは、コンピュータ上で三次元シミュレーションしたイメージを用いる。また、レーザーカットしたステンシルは、日本の型染めなどがヒントになったという。最先端テクノロジーと伝統の技、西と東、アートとデザイン、絵画と版画。これらは対照的、対比的な二項と見なされる(あるいは、戦略的に提示することもできる)が、この作家の手にかかると、上述したように、意図に合わせて、実にしなやかに制作の中に組み込まれる。型染めなど、説明を受けるまで全く意識しないほど彼の手法である。こうして、高い技術(テクノロジー)に裏打ちされ、知的に計算された先で、あの、見ることの驚きが生み出されるのである。
彼が近年描いているモチーフは日常の消費物のようだ。目の前を過ぎていくささやかな存在に、今日性と意味を見出しているのだろうが、そこに詩に通じるものも感じられる。詩人は現実とは独立した文字の世界を構築する。ダッジも、それと同様のことを絵筆で行っているのだ。
アレックス・ダッジ | Alex Dodge
1977 年アメリカ合衆国コロラド州デンバー生まれ、現在ブルックリン(ニューヨーク)と東京を拠点に活動している。近年の主な展示に、個展(2020年 / Klaus von Nichtssagend)、個展「情報のトラウマ」(2019 年 / Maki Fine Arts)、「Programmed: Rules,Codes, and Choreographies in Art, 1965-2018」(2018-19 年 / ホイットニー美術館)、個展「Whisper in My Ear and Tell Me Softly」(2018 年 / Klaus von Nichtssagend Gallery)など。ニューヨーク近代美術館、ホイットニー美術館、メトロポリタン美術館、ボストン美術館などに作品が収蔵されている。
「Beyond AI」- FARO Collection アルフレッド・ジャー、ライアン・ガンダー、JODI
協力:SCAI THE BATHHOUSE、TARO NASU、Takuro Someya Contemporary Art、Upstream Gallery

OXO
2018年
Raspberry Pi 3, custom keypads, wood
Photo Gert Jan van Rooij.
Courtesy Upstream Gallery Amsterdam & the artists
Maki Fine Artsでは8月14日(土)より9月5日(日)まで、「Beyond AI」 – FARO Collection アルフレッド・ジャー、ライアン・ガンダー、JODI を開催いたします。FAROコレクションより、3名のアーティストによる作品を展示いたします。是非ご高覧下さい。
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インターネットとの異なる関係に向けて—-BEYOND AI展に寄せて
菅原伸也(美術批評・理論)
現在のようなAIが出現する以前、1970年代半ばごろに、三目並べ(マルバツゲームとも言う)で本物の鶏と対戦することができる「BIRD BRAIN」というアーケード・ゲームが存在した。もちろん本当に鶏が三目並べをプレイするわけはなく、鶏は、コンピュータが提示する適切な手と連動している点滅するボタンを突くよう条件付けされていたのだった。JODIによる作品《OXO》がその四種類のプレーヤーの中に、「人間」「コンピュータ」「AI」とともに「鶏」を含めているのはこのゲームに由来している。さらに、《OXO》というタイトルも、1952年にアレグザンダー・S・ダグラスが開発した、「世界最初のコンピュータ・ゲーム」とも言われる三目並べゲームから来ている。2015年に、Google DeepMindが開発したAlphaGoが、世界トップクラスの棋士であるイ・セドルを囲碁の勝負で破ったことはいまだ記憶にも新しく、2018年の作品であるJODIの《OXO》も、そのことを意識しているだろう。だが、それは、世界的な囲碁棋士と神秘的なAIとの対戦といった、我々と隔絶する世界とは全く異なっている。《OXO》は、観客参加型の作品であって、観客が四種類のプレーヤーと三目並べで実際に対戦することが可能であり、三目並べという、誰でもプレイしたことのあるシンプルなゲームを通して、コンピュータの歴史、ゲームの歴史を身近に理解し体感することができる作品なのである。
ライアン・ガンダーの《On slow Obliteration, or Illusion of explanatory depth》は、黒いボックス状の装置と、その横に掲示されたテクストとがセットとなった作品である。テクストでは、スマートフォンやソーシャル・メディアがテーマとなっており、スマートフォンの目的とは「時間を消費させること」であって、そこで消費された時間は金銭的な利益と結びついていると批判的に語られている。ウェブサイトやソーシャル・メディアは、ある画像や動画を見させたりあるリンクをクリックさせたりするためにユーザーの視線をある一定の順路で誘導するようにデザインされており、金銭的利益を生じさせるためにユーザーの「時間を消費させる」ことを目的としている。そうしたやり方に対して、ガンダーの装置は、サイトやソーシャル・メディアを閲覧するときのように一点を見つめたりある一定の視覚的経路をたどったりするのとは異なる、装置や視覚のあり方のオルタナティヴを提示している。すなわち、それはスマートフォンの液晶画面上にあるドットのようでありながらも、黒と金の円形状のものがフリップするというシンプルでアナログな仕組みから成り立っており、比較的ランダムであるフリップの動きに備えるため、観者は漫然とその全体をぼうっと見るよう要請されるのである。
アルフレッド・ジャーの《You Do Not Take a Photograph, You Make It》は、本展では額装されたポスターのみが展示されているが、本来、ライトボックスと、持ち帰り可能なポスターがセットとなった作品である。タイトルとなっている「写真は撮るものではなく、創るものだ」という言葉はもともと、写真家アンセル・アダムズによるものであるが、写真や画像を取り巻く環境がアダムズの時代から激変した現代において同じ言葉を読むとき全く異なる意味合いを帯びることとなるだろう。コンピュータやAIによって写真を加工することや完全に偽の画像を「創る」ことは今や誰でも容易に行うことができる。ジャーは、アダムズの言葉を転用し、それをポスターにして観客が持ち帰ることができるようにすることによって、写真や画像を取り巻く状況の変化や、現代における写真や画像の有り様に対して注意を向けさせ、写真の創造者としての責任を意識するよう求めているのである。
本展における三つの作品とも、必ずしもインターネットやAIの存在や意義を否定しようとしているわけではない。むしろそれらは、AIやインターネットと我々との関係を問い直し、今までとは異なる関係性を築くよう、さまざまなやり方で促しているのである。それを実際に行うか、そしてどのように行うかは、本展で三つの作品を見た後の我々に問われているのである。
【同時開催】
アレックス・ダッジ「Remote Working」
8月14日(土)- 9月5日(日)会期中の金・土・日のみオープン
FARO Kagurazaka / 東京都新宿区袋町5-1 FARO神楽坂1F
詳細はこちら
加納俊輔「滝と関」

Pink Shadow_29
2020年
Inkjet print, lumber
75 x 60cm
Maki Fine Artsでは、加納俊輔 個展「滝と関」を開催致します。加納俊輔の作品は、写真を通じて、画面に複雑な階層を意識させるイリュージョンを生み出します。版画の制作アイデアであるレイヤーの重なり(積層)と、記録装置としてのカメラ(写真)の特性を活かしながら、画面を圧縮していく手法で生み出される作品は、ものの 前後関係や奥行きが曖昧になる錯視効果を与えます。加納は1983年大阪生まれ、THE COPY TRAVELERSのメンバーとしても活動しています。
2013年の初個展以来、Maki Fine Artsでは6度目の個展となる本展では、「ピンク・シャドウ」 シリーズの最新作を発表いたします。「ピンク・シャドウ」は、印画紙が光を透過する性質を利用して制作されています。これまでの加納の作品の特徴は、表面からのレイヤーを重ねていく方法、「積層」によるものが大半でしたが、「ピンク・シャドウ」は裏面からの層が付け加えられたものです。このアイデアは、版画家、井田照一氏の作品からヒントを得たもので、表と裏を同時に見ることを実現化しています。
2018年のMaki Fine Artsでの個展「ピンク・シャドウ」で初めて発表された作品から発展し、 本展の新作は、さらに多重の要素が加えられ、複雑化したレイヤーにより設計されています。 画面の中心を構成するパターンの図(花柄やストライプ等)は、透明ビニールにシルクスクリ ーンで柄を刷ったもので、実際にはプリントされた写真の裏側に置かれたものです。裏面から 投影されて見える図像と、写真上で随所に構成された木片の陰影とのバランスが、視覚の動線を作り出し、より立体感のある階層のイリュージョンを作ります。
研ぎ澄まされた加納の最新作、是非ご高覧ください。
Shunsuke Kano | 加納俊輔
1983年大阪生まれ。京都在住。2010年 京都嵯峨芸術大学大学院芸術研究科修了。写真を通して、複雑な階層を意識させる手法により、「見る」という行為を問い直す作品を発表しています。近年の主な展覧会として、個展「ピンク・シャドウ」Maki Fine Arts(2018、東京)、個展 「コンストラクション断面」Maki Fine Arts(2016、東京)、個展「第8回 shiseido art egg 『加納俊輔 | ジェンガと噴水』」資生堂ギャラリー(2014、東京)、グループ展「VOCA展2017 現代美術の展望─新しい平面の作家たち」上野の森美術館(2017、東京)、グループ展「これからの写真」愛知県美術館(2014、愛知)など。THE COPY TRAVELERSのメンバーとしても活動。
高石晃「Inner Surface」

Inner Surface (I See Colours)
2020年
Acrylic on canvas
116.7 x 91cm
Maki Fine Artsでは、高石晃 個展「Inner Surface」を2月19日(金)より3月21日(日)まで、開催いたします。Maki Fine Artsでは、約4年半ぶり、2回目の個展になります。
表面にスプレーペイントを施すことにより、実際の筆致や絵具の凹凸がプリントされたような錯覚をともなって現れる絵画のシリーズ「Inner Surface」は、2019年以降、高石の作風を特徴づけています。ワンストロークによる大きな筆致、絵具のボリューム感、ドリッピングなど、画面には手作業による痕跡を確認できますが、スプレー噴射によりコントロールされた明暗の調整、色調の振幅により、光を帯びたような視覚効果を与え、平坦で物質性が取り除かれたような表面へと変換されています。
高石はこれまで、支持体のパネルを切断する等、物質と絵画のボーダーラインを横断する作品を発表してきましたが、近年の「Inner Surface」は、一貫して取り組む「現象としての絵画」の延長線上にあります。是非ご高覧下さい。
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Inner Surface
ガラス越しに見るペラペラの風景
3Dのポリゴンに貼り付けられた写真
フィルター、レイヤー、ピクチャーテクスチャー
不織布、ウレタン、ポリエステルフィルム
遠隔操作で触れた物のテクチャーは画像でできている
我々はそういう表面にとり囲まれている
その表面世界に穴を開けることができるか
一瞬表面に亀裂が走り、
奥の世界が見える気がするが、それもまたペラペラで平板な光景になってしまう
絵画は、目の前の壁にぶら下がっている平らな物体だが、
一つの表面でなく、複数の表面をもっている
虚の表面=イリュージョンは
一段高い次元(n+1)、一段低い次元(n-1)
両方から我々のいる世界に投げかけられた影である
絵画を使えば、世界の表層の亀裂の奥に垣間見える風景、それがまた単なる表面に変わってしまう、その一瞬前を捉えることができると思う
高石晃
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高石晃 / Akira Takaishi
1985 年神奈川県生まれ。2010 年武蔵野美術大学大学院美術専攻油絵コース修了。遠近法の操作や、支持体の切断、表層の掘削などの手法でイメージと物質の境界を横断する作品を制作している。近年の主な展示として、グループ展「都美セレクション グループ展 2020 描かれたプール、日焼けあとがついた」(2020年 / 東京都美術館 ギャラリーA)、個展「下降庭園」(2019 年 / clinic)、「三つの体、約百八十兆の細胞」(2017 年 /Maki Fine Arts)、個展「地下水脈」(2016 年 / Maki Fine Arts)、「わたしの穴、美術の穴」(2015 年 / スペース 23°C)、個展「シャンポリオンのような人」(2013 年 / 児玉画廊)など。