Exhibition
堀田ゆうか Te e bu lu
2025年5月10日(土)- 6月8日(日)

C-155
2025年
アクリル、鉛筆、ジェッソ、合板
27.6 x 36.6 x 0.5 cm

C-156
2025年
アクリル、鉛筆、ジェッソ、合板、木材
22.7 x 24 x 2.4 cm

C-157
2025年
アクリル、鉛筆、ジェッソ、木製パネル
24.2 x 33.3 x 1.6 cm

C-154
2025年
アクリル、鉛筆、ジェッソ、合板、木材
68.2 x 12.8 x 2.2 cm
呼吸をあわせる、歩幅をあわせる、角をあわせる - 堀田ゆうかの絵画的芸術
梅津 元(批評家/キュレーター)
ふしぎなタイトルの展覧会である。
「Te e bu lu」、実に変わったタイトルだ。「テーブル」を、一文字ずつ、ローマ字で表記している。カタカナで表記され、日本語として馴染んでいるとはいえ、「テーブル」は「Table」という英語であり、日本語に翻訳すれば「机」である。だから、「机」を「Tsu ku e」と表記するならば、「Table」の訳語の発音を示すという意味で、その表記の目的や意図を理解できるだろう。だが、英語がカタカナとして日本語化した「テーブル」をローマ字で表記するという、何か、本末転倒な感覚。
この感覚を説明するには、「トランスリタレーション(transliteration)」を参照すると良いだろう。辞書的な定義を参照するならば、トランスリタレーションとは、ある言語で書かれた言葉の、その発音を、別な言語で表記すること、という意味である。聞き慣れない用語であるが、「翻字」、「字訳」、「音訳」などと訳されることからわかるように、意味によって言葉を変換する「翻訳=トランスレーション」とは異なり、「発音」の置き換えなのである。
まさに、英語の「Table」の発音を、日本語として「テーブル」と表記することは、「トランスリタレーション」の事例なのである。さらに、(英語に由来する)日本語の「テーブル」を、ローマ字の「Te e bu lu」と表記することもまた、「トランスリタレーション」に感じられる。けれども、ここで、「ローマ字の」と書くしかない「Te e bu lu」は、一体どの言語に属するのかを、判定することができず、日本語から別な言語への置き換えではないため、トランスリタレーションとはいえないことになる。
だが、ここでは、言語的な厳密さが求められているわけではない。「テーブル」の発音を、「Te e bu lu」へと置き換える堀田ゆうかの仕業を、私は、「トランスリタレーション」と認定したい、日本語の発音を、「未知なる言語」の表記へと置き換えているのだ、という解釈によって。ようやくここに至り、絵画の問題へと接続することができる。言葉を「音読」するように、絵画を「発音」によって表現することができるならば、堀田ゆうかは、(従来の)絵画の「発音」を、「未知なる絵画」の表記へと置き換えようとしている。大胆にも程がある、というべきか。
ルールがあるような、ないような。
「堀田ゆうかは、(従来の)絵画の「発音」を、「未知なる絵画」の表記へと置き換えようとしている。」と書いてみたのだが、ここで「(従来の)絵画」とは、「ルールがあるような絵画」を意味しており、逆に、「未知なる絵画」とは、「ルールがないような絵画」を意味しているのだと、レトリックの力を借りて、ひとまずは、書いておこう。ルールがある、ということは、制約だろうか、窮屈だろうか。ルールがない、ということは、自由だろうか、奔放だろうか。
問いが抽象的すぎるならば、この問いの前に、「絵画において」というフレーズを置いてみると良いだろう。私にはわからないけれど、その問いの答えを、画家は知っているはずだ、心と体の奥底からの声として、無視することができない、論理を超えた感覚として。そのことに何がしかの羨望を感じない訳にはいかない私としては、詭弁を弄するように聞こえるとしても、この問いを、次のようにずらしてみたくなる。
すなわち、「ルールがあるような」という表現は、「ルールがあるフリをしているが、実はルールがない」ことを意味し、逆に、「ルールがないような」という表現は、「ルールがないフリをしているが、実はルールがある」ことを意味している。ということは、「ルールがあるような(従来の)絵画」には、実は「ルールがない」ことになり、逆に、「ルールがないような未知なる絵画」には、実は「ルールがある」ことになる。この議論の視界を少しクリアにしてみよう。上記の議論が錯綜しているのは、「ルール」という言葉に託されている意味が過剰だからである。
「ルールがある(ない)ように見えて、実はルールがない(ある)」という時、前者の「ルール」とは、表面的な、外在的な、他律的なルールであり、後者のルールは、本質的な、内在的な、自律的なルールである。ここでようやく堀田ゆうかにおける絵画の問題へと接続することができる。堀田ゆうかは、(従来の)絵画から感じとらざるを得ない「表面的な、外在的な、他律的なルール」を、「未知なる絵画」における「本質的な、内在的な、自律的なルール」へと置き換えようとしている。大胆にも程がある、というべきか。
えもいわれぬ感じ、表現しがたい。
マキファインアーツに入る、左の壁が気になり、視線を向ける、意外なところに作品がある、《C-151》。電気のスイッチがおさまる金属の矩形の、その右斜め上に、その作品は「居る」。「居る」と書いてみたのは、「展示」や「配置」という言葉では表現しがたい、「えもいわれぬ感じ」を受けるからである。一般的に考えれば、ギャラリーという空間において、このスイッチは展示の妨げになりかねないため、その近くに作品を配置することは考えにくい。だが、堀田の場合、この《C-151》という作品は、スイッチがおさまる金属の矩形と、絶妙な関係に「居る」ように見える。
比喩的な言葉を用いれば、「つかずはなれず」という表現が最もしっくりくるのであり、まさに「つかずはなれず」という言葉が示すとおり、スイッチと《C-151》は、一定の距離を保ちながら、相互の関係を持続させているように見える。人間関係でいえば、声をかけて親しくなるほどではないが、かといって赤の他人ではない、お互いの存在を尊重して認めているような関係、といえるだろうか。《C-151》は、スイッチを排除しようとせず、スイッチは、《C-151》を拒まない、そんな風に見えてしまう。
スイッチを展示の妨げとみなして、その近くには作品を設置しないという考え方、それが、「(従来の)絵画から感じとらざるを得ない表面的な、外在的な、他律的なルール」であるとすれば、堀田ゆうかは、そのようなルールなどこの世界に存在したことがないかのように、《C-151》の「居場所」を見つけている。今回の展示を見まわせば、堀田が、ギャラリーという空間に存在するすべての要素を排除しないという、「未知なる絵画における本質的な、内在的な、自律的なルール」を、自らの視覚と身体と体感によって、手探りで見つけ出している様子を目撃することになる。
《C-151》が「居る」壁面を通り過ぎると、左側の白い台の上に、《C-155》が、「佇んでいる」。台に乗せられ、壁を背にして、立てかけられている様子が、「佇んでいる」という表現を誘うのである。《C-155》の少し右には非常ベルが取り付けられており、物体としても色彩としてもその存在感は強い。普通はその近くに作品を展示することは想像しにくいが、堀田の場合は、そうではない。《C-155》もまた、この非常ベルを避けることなく、「つかずはなれず」の良好な関係を保っているように感じられるのである。大胆にも程がある、というべきか。
テンションが高いのか、低いのか。
《C-151》とスイッチ、《C-155》と非常ベル、その「つかずはなれず」の関係に静かな驚きを感じつつ、さらに視線をその先へと向けると、《C-174》が見えてくる。ようやく、ギャラリー内の何らかの設置物とは特に関係しない作品が現れたのかと思い始めたその矢先、《C-174》の右側に、縦に長い配電盤の扉が目に入る。まさか、作品よりもはるかに縦に長く大きなその扉が、作品と関係していることはないだろう、そう思おうとしていることを意識する。
だが、スイッチや非常ベルを排除しないというルールをなんとなく受け入れつつあるためなのか、《C-174》と配電盤もまた、「つかずはなれず」の関係を保っているように見え、さらなる驚きを覚えると、一気にテンションが高くなる。何より、《C-174》は極めて魅力的な作品である。今回の出品作品の多くがそうであるように、支持体の形は直線的な矩形ではなく、とらえどころのない、矩形に準じた形状をしている。そこに施される描画は、基本的には薄塗りで、上からの描画が下の層を不透明に覆い隠してしまうことはなく、半透明な重なりの可視化が維持されている。
網のような、フェンスのような、規則的とはいえないマス目のような形状が、濃い色の色彩を用いて描かれ、そこに、白をベースとする描画が重なっている。《C-174》に見られる白の描画は、私が初めて堀田の作品と展示を見る機会となった昨年のグループ展や、今年に入ってからの東京藝術大学での修了制作展の展示を想起させる。このふたつの展示においては、空間を生かしたインスタレーション的な要素も重要であり、小さな白い円形のパーツが空間に散りばめられるなど、現実空間における白のモチーフの展開が見られていた。
今回の展示では、そのような現実空間における白のモチーフの展開は、絵画的な描画へと内在化されている。画面内の描画には誠実さと丁寧さが感じられ、意図的にテンションを抑制しているように感じられる。芳名帳や資料が置かれている台の奥に見える、《C-172》、《C-175》、《C-156》、《C-170》などから、そのような感覚がもたらされる。小品《C-175》は、インスタレーション的な展示における小さな白いパーツを想起させ、「原寸大の絵画」という直感をもたらす。しかし、「絵画に対して原寸大」とは、驚くべき事態である。大胆にも程がある、というべきか。
ここまでの4つの断章の冒頭に掲げたフレーズを並べ、最初の一文字を縦に読むと、「ふルえテ」が出現する。
ふしぎなタイトルの展覧会である。
ルールがあるような、ないような。
えもいわれぬ感じ、表現しがたい。
テンションが高いのか、低いのか。
「ふ ル え テ」、ひらがなとカタカナが交互に現れるが、それは本質的なことではなく、重要なポイントは、この「ふ る え て」が、「Te e bu lu」の、「音」の上でのアナグラムになっていることである。通常のアナグラムとは、ある言葉を形成する文字の配列を入れ替えて、別な言葉に変換することを示す。例えば、「Maki Fine Arts」の「maki」ならば、4つの文字を組み替えると「kami」になる、ということである。だから、一般的なアナグラムであれば、「Te e bu lu」の「T, e, e, b, u, l, u」という7つの文字を組み替えることになる。
だが、ここでは、そのような文字の入れ替えではなく、「Te e bu lu」すなわち「て」、「え」、「ぶ(ふ)」、「る」という日本語の音と対応する文字を組み替えて、「ふ る え て」というアナグラムが出現したのである。この「ふるえて」は、「震えて」や「震え、手」であるだろう。アナグラムに含まれる「震え」、すなわち、振動は、不定形な板やパネルという、堀田の作品を特徴づける支持体が生まれるまでの工程を想起させる。そして、「震え、手」は、堀田が作品を制作するときの身体的な所作や、絵画的な描画に没頭する時の振る舞いを想起させる。
※
手 絵 葡 留
柄
舞
流
縦も、横も、「て え ぶ る」と読めるように、一文字ずつ、漢字が当てられている。音に該当する漢字ということだけであれば、想起される漢字は飛躍的に増え、その組み合わせは膨大な数になるだろう。だが、そのような言葉遊びやゲームのようなことをしたいわけではない。もちろん、言葉遊びと受け止められてしまうことは避け難いことは承知しているが、それでも、やらなければならないことが見えているからこそ、このような言語的実践を試みる。
縦方向の「手 柄 舞 流」、この4つの文字の並びそれ自体が、いくつかの作品、すなわち、縦方向、垂直方向を意識させる作品と、呼応している。具体的に示すならば、まずは、《C-179》と《C-178》の2点である。この2点が壁面に展示されている様子から、何かを思い出さないだろうか。そう、《C-151》とスイッチ、《C-155》と非常ベル、それぞれの、「つかずはなれず」のような関係が、この2点を見ていると、想起されるのである。
ということは、つまり、スイッチと《C-178》が、非常ベルと《C-179》が、置き換わることが可能であることが示唆されている。驚くべきことである、ギャラリーのそこかしこに存在している設置物と、ギャラリーに展示されているアーティストの作品が、まるでそれが当然であるとでもいいたげに、相互に入れ替わり、置き換わることが可能なのだと告げている。《C-151》とスイッチの、《C-155》と非常ベルの、そして、《C-174》と配電盤の、それぞれの関係は、今回の展示における、「作品と作品の関係」に対する意識を研ぎ澄ますためのアプローチとしても機能している。
つまり、ギャラリーの中に存在する何らかの物体と、堀田の作品との間に確認される「つかずはなれず」の関係が、作品と作品との間にも確認できる、ということであり、そのことは、ひとつひとつの作品が、その作品にふさわしい領域、テリトリーを持っている、ということの証である。《C-179》と《C-178》は、それぞれの形状、プロポーション、厚さ、色味、テクスチャー、描画の様子、つまりは、物体としての存在様態と、視覚的な表現としての描画の内容の、その全てをふまえて、相互に相手の作品のテリトリーを尊重し、「つかずはなれず」の関係を保っている。
もう一組、縦方向の「手 柄 舞 流」という文字の並びから想起される作品は、《C-154》と《C’-1-6》である。《C-154》は、この4つの文字の縦方向の配置と呼応するように、垂直性を意識させる作品であり、最後の文字である「流」を想起させるように、縦方向の流れを生じさせるような描画がなされている。さらに、瞠目すべき新たな展開を見せる《C’-1-6》は、この表記が示すように、《C’-1》から《C’-6》までの、6点の作品によって構成されている。上から下に向けて、エコーがかかった音のように、サイズが徐々に小さくなっていることで、反響や残響が想起される。
横方向の「手 絵 葡 留」、この4つの文字の並びそれ自体が、いくつかの作品、すなわち、横方向、水平方向を意識させる作品と、呼応している。具体的に示すならば、まずは、《C-159》である。この作品は、前述した、垂直方向を意識させる《C-154》と《C’-1-6》の、その間に、床に置かれ、壁に立てかけられている。そう、この、床に置かれ、壁に立てかけられている、という状態が、床面の水平性、そして、床と壁が交わるところに生じる水平方向の線に導かれて、横方向、水平方向を意識させるのである。
極めて自然に、さりげなく、あたかも、この作品にとっては、このように配置されることが予め決まっているかのように、《C-159》は、床に置かれ、壁に立てかけられている。白だけではなく、緑系、青系、グレー系の色彩も用いられており、そのような色彩は、今回の出品作品に共通する特徴となっている。やはり、不定形の、つまりは、直角と直線で構成される矩形ではない形状の支持体を眺めていると、その輪郭の少し内側に、フリーハンドでひかれた線が見えてくる。この特徴は、多くの作品に共通しており、とても気になるところである。
例えば、《C-154》の右側に配置されている《C-168》は、歪んだ矩形のような形状の板の内側に、かなりしっかりと、直線からなる矩形をなすように、強い線がひかれている。歪んだ特徴的な形状の支持体を用いているのに、その内側に直線的な矩形をひいて描画がなされていることに、一瞬、矛盾を感じないこともない。だが、支持体の形状に描画が惑わされることがないように、内側に矩形の線がひかれるのだと想像する。ならば、右に見える《C-159》のように最初から矩形の支持体を選べば良いのではとも思うが、全てが最初から矩形では息苦しいのだろう。
不定形の形状の支持体と、それを「生かすような、生かさないような」、その描画のあり方は、まさに、前述した、「ルールがあるような、ないような。」という表現によって見えてくる、「未知の絵画」を目指す堀田の芸術のあり方を、彷彿とさせるのである。そして、横方向、水平方向を意識させる作品へと戻るならば、もう1点、《C-158》を挙げることができる。そう、《C-159》と同様、《C-158》は、床に置かれ、壁に立てかけられているからである。この2点は、今回の出品作品の中では大きめの作品であり、それもまた、床置きであることを自然に感じさせる要因である。
最後に2点、《C-171》と、《C-176》を取り上げたい。《C-171》は、台の上に乗せられ、壁に立てかけられているが、その形と厚みから、食パンが想起される。しかし、通常、絵画のその形から、日常的に接している何らかのモノが想起されることは、ほぼないはずである。大きさを表現するときに、何かの現実の物体を名指す時があるとしても、それは、大きさを説明するためであり、そこで名指される物体が、それ自体として、想起されているわけではない。
それに対して、《C-171》の大きさ、厚さ、少し凹んだ上の辺、そして木材の色彩、それらを総合的にとらえる私の感覚が、否応なく、食パンを連れてきてしまう。絵画、正確には、絵画的芸術と呼ぶべき堀田の作品において、この事態は、極めて示唆に富み、重要な論点を導いてくれる。それは、「テンションが高いのか、低いのか。」のところで記述した、「原寸大の絵画」という論点である。ここで、堀田の作品を「原寸大」と感じるのは、その支持体、そして、その支持体が想起させる現実の物体に対して、「原寸大」なのではないか、ということが判明するのである。
そして、《C-176》である、もはや説明不要だろう、空調のコントロールパネル、電気のスイッチ、コンセント、おそらくは配線を隠している構造物、これでもかとさまざまなモノで混み合っているその壁面の、まさかここに、という場所に、《C-176》は、「居る」。もはや「つかずはなれず」という距離感が失われ、さまざまなモノと作品が、肩を寄せ合うかのように、隣接している。だが、「つかずはなれず」は、失われたのではない。目に見える現実の距離、リテラルな距離が存在しなくても、「つかずはなれず」は、モノと作品の関係性に、しっかりと内在している。
「手 柄 舞 流」
堀田ゆうかは、「手」で、筆の「柄」を持ち、画面の上を「舞」うように、自然な「流」れのように、絵を描く。
「手 絵 葡 留」
堀田ゆうかは、「手」を動かし、「絵」を描く、たわわに実る「葡」萄のような、その成果を画面に「留」めて。
「手 柄 舞 流」と「手 絵 葡 留」は、呼吸をあわせるように、歩幅をあわせるように、角をあわせる。
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トークイベント「歩幅をあわせる」
梅津元 × 李静文 × 堀田ゆうか
5月10日(土)19時 – 20時
Maki Fine Arts 東京都新宿区天神町77-5 ラスティックビルB101(地下1階)
予約不要(先着順 / 定員15名程度)
無料
梅津元(批評家/キュレーター)
1966年神奈川県生まれ。批評家/キュレーター。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。モダニズム以降の芸術の可能性を探るため、美術、写真、映像、音楽に関わる執筆や企画を中心に領域横断的な活動を展開。主な企画:「DE/construct: Updating Modernism-阿木譲をめぐる3つのプログラム」NADiff modern & SuperDeluxe(2014年)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17年)、「樋口朋之 DUB/stance」The White(2024年)、「〈うつること〉と〈見えること〉-映像表現をさぐる:60年代から現代へ」(「ART OSAKA 2025」映像プログラム、2025年6月開催)。埼玉県立近代美術館学芸員(1991-2021年)としての主な企画(共同企画を含む):「〈うつすこと〉と〈見ること〉-意識拡大装置-」(1994年)、「1970年 物質と知覚-もの派と根源を問う作家たち」(1995年)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999年)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000年)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019年)など。
李静文(インディペンデント・キュレーター)
2014 年に来日、武蔵野美術大学彫刻学科を経て、現在は東京藝術大学の博士後期課程に在籍。彫刻の身体性と空間性をテーマにデジタルフィールドにおける彫刻概念の研究を深めている。東京を拠点に、ヤングジェネレーションとオルタナティブコミュニティを中心に企画や研究など幅広い分野で活躍。彫刻作家としてのバックグラウンドとメディア理論研究者の視点を融合し、日常的機能性を超えるテクノロジーの魅力を取り上げ、現時性と情動をキーワードに、物事のつながりに注目しながら、独自のキュレーションでポストメディア時代のアートシーンにおける冒険をする。過去は芸術団体「Upload AIR」の運営やウェブマガジン「The Colossus 巨像」の編集、アートコレクティブ「脱衣所」のメンバーとしても活躍。2024年にアーティストインレジデンス「D-O-U 成増」を創立し、現在は建築団体 GROUP と手を組み、スペースをリノベしている。
堀田ゆうか(アーティスト)
1999年 愛知県生まれ。2025年 東京藝術大学大学院 美術研究科絵画専攻 修了。絵画を起点とし、ドローイングやインスタレーションを軸に制作。近作では版表現を作品に組み込むなど、様々なメディアを介したドローイングも試みている。
近年の主な展覧会として、「神戸六甲ミーツ・アート2024 beyond」(2024年)、「パターンと距離」(2024年 / Maki Fine Arts)、「act. Inframince」(2024年 / OGUMAG)、「a hue and cry. 」(キュレーション:李静文 / 2024 年 / アートかビーフンか白厨)、「バグスクール:うごかしてみる!」(2023年 / BUG)、個展「からです」(2023年 / APどのう)、個展「pppractice」(2023年 / フラットリバーギャラリー)、個展「ない関節」(2023年、亀戸アートセンター)、「うららか絵画祭」(2023年 / The 5th Floor)など。