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平野真美「空想のレッスン」
Maki Fine Artsでは2月4日(土)より3月5日(日)まで、平野真美 個展「空想のレッスン」を開催いたします。
これまで平野は、病気で衰弱した愛犬の身体の大きさや骨格などを正確に再現した作品「保存と再現」(2013年)や、亡くなった愛犬の遺骨が納められた骨壺をCTスキャンし、3Dプリンタで出力した遺骨を硝子や陶磁に作品化した「変身物語」(2018年~)などを発表してきました。それらの作品は、慈悲的で、死への眼差しを伴った観察の記録であり、失った存在を受容するためのセルフ・リフレクションともいえます。
Maki Fine Artsでは初めての個展となる本展では、2014年から現在進行形で取り組む作品「蘇生するユニコーン」の、新たな実践のプロセスが提示されます。想像上の生物であるユニコーンの実在化を試み、骨格・内臓・筋肉・皮膚などを緻密に制作、肺と心臓に生命維持装置をつなぎ合わせ、まるで生命を宿したかのような存在として出現させます。本展ではユニコーンに加えて、その身体の深部までを辿り、表皮、臓器、神経、血管、筋肉、骨格の設計図を展示します。拡張し続ける、平野のライフワークとしてのプロジェクトを是非ご覧ください。
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転生と解剖:平野真美にみる「科学と魔術」の衝突を巡って
高橋洋介(キュレーター)
骨格や皮膚、血管、内臓といった身体のあらゆる部位を樹脂やガラス、金属などの人工物で模造することで、平野真美は実在しない空想上の生物や死んでしまった動物を擬似的に現実に甦らせ、「いまこの時代に生きることの手触り」を問いかけてきた。死に近づいていく寝たきりの愛犬を、剥製のように精巧に再現したデビュー作《保存と再現》(2014)が、愛する家族の一員の命を現世になんとか止めようとする蘇生の儀式であったとするなら、前作の《変身物語》(2020)は、その続編として、工学的にスキャンされた愛犬の骨格をパート・ド・ドヴェールという古代のガラス工芸の技法で鋳造し、失われてしまった愛しき関係や記憶をいかに失わずにいられるのかが模索されている。
両作の狭間で開始された本作《蘇生するユニコーン》は、古代の神話上にしか存在しない架空の生物である「一角獣」を、外見—-眼球、鬣、皮膚、蹄など—-のみならず、骨格、臓器、血管といった見えない部位まで作り込むことで、まるでフィクションが現実であるかのように錯覚する体験を生み出している。一見すれば、本作は、我々が大人になるにつれて失ってきたファンタジーの世界の回復であり、近代以降、愚蒙として捨て去ってきた神話的な想像力の復権として解釈できる。
しかし、よく見れば、解剖台の上のユニコーンは内臓剥き出しで横たわり、輸血され、心電図で心拍数を確認されるほどの、瀕死の状態である。それは、むしろ現代において神話的な想像力が死に絶えかけていることの隠喩と理解できる。つまり、かつて神話や宗教の物語は世界の成り立ちや謎を説明するものとして機能してきたが、実験と数量化に裏打ちされた現代の科学の合理的な説明を前に、もはや神話的想像力で世界を説明することは迷信に満ちた怪しいものに変わってしまった。神話や宗教は客観性を欠いたオカルトへと失墜し、私たちはユニコーンが実在すると欠片も信じることはできなくなってしまった。極言すれば、本作は科学によって解剖された瀕死の「前近代性」の象徴なのだと。
にもかかわらず、消え失せゆく神話的な想像力を、なぜ平野はその死の淵から救い出そうとするのか。しかも、途方もない労力をかけて。アメリカの哲学者モリス・バーマンは、原子炉やコンピュータ、遺伝子工学など科学の合理性が世界中に浸透してあらゆるものを支配・管理すればするほど、人間は、狂気、空想、夢、神話、象徴、魔術のような非合理なものを必要とすると述べ、その社会/精神の構造こそが、シュルレアリズムやダダのような芸術を我々が必要とした理由だと分析した。*1 サルバドール・ダリは溶けていく時計によって直線的で機械論的な合理的な時間を否定し、ルネ・マグリットは瓶と人参を相似的に融合させることで理性では理解できない感性の理を表したが、平野もまたそのような科学の合理性の裏側を芸術によって探求していく作家として位置づけられるだろう。シュルレアリズムは「ミシンと蝙蝠傘との解剖代の上での偶然の出会い」のような美しさ、つまり、ミシンや傘といった「日常的なオブジェ」が本来とは違う文脈に移されることで生まれる違和感ともなった新しい美しさ(デペイズマン/異化効果)を探求したが、平野の「解剖台の上で生々しい臓器を露わにするユニコーン」においては、20世紀のありきたりな既製品(レディメイド)を援用する手法は棄却され、ユニコーンという前近代の「非日常的なモチーフ」が工芸的ともいえる精緻な造形技術と解剖学の援用によって近代的な現実へ挿入される。バーマンの議論は、単に近代社会に抑圧された人間の諸問題は前近代の価値観へ回帰すれば解決するという話ではない。むしろ、近代が捨て去った神話的な想像力とは、生物としての人間の最下層に根差した初源的な認識の形態であり、自我以前の未発達な文明の認識というより、むしろ科学的な世界観が築かれた後でさえ、人間の存在の根本的な土台をなすほどに欠くことができないものなのだ。それは合理化された現代においてさえ、なぜ非合理と反有用性の塊である芸術があらゆる社会で生産/需要されるのかという本質の一部を解き明かす。この視点に立てば、ユニコーンの復活が、魔術ではなく、神話を殺した科学ー輸血器具、心電図、解剖台などーによってなされるという本作の逆説は、むしろ、前近代的な神話的想像力を維持したまま、いかに近代の問題は超克できるのか、という問いとして変換されるべきだろう。あるいは、人工知能が絵を描き、音楽を作曲し、車を運転する、現代を見渡すなら、SF小説家アーサー・C・クラークが予言したように「高度に発達した科学はもはや魔法と区別できない」世界が到来する予兆として。
しかし、加えるなら、前作の愛犬の骨格理解がユニコーンの造形に応用されていることは、本作が平野の家族とも言える動物との絆から生まれてきていることを意味する。これを人生の伴侶たる動物を神獣へと転生させる行為として捉えるなら、本作は、愛するものの時を超えた転生への願いであり、人間以外の生命への敬意の表現とも言えるだろう。日本の哲学者の奥野克己はアイヌ文化の熊送りの儀礼を通して「表層的な現実を生きる人間の日常だけでは掴み取ることが困難な、言語以前の外部世界に触れること」や「他の生命への感受性」こそアニミズムの精髄と結論づけたが、私たちは、ここにもそのような「今日のアニミズム」を実践する21世紀の芸術の可能性の一端を見ることができる。*2 あらゆるものを数量化し、操作可能なものに変え、人間の意志を強制し、過剰に人間中心主義的な方向へ堕ちていく世界の中で、人間がたとえ神のような力を得たとしても、それを人間以外の生命を敬い、その傲慢さを抑えるような方向へと反転させよ。その態度にこそ、時代の常識を打ち破る芸術の本質が宿っているのだ、と。
*1 モリス・バーマン著 柴田元幸訳「デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化」国文社、1989
*2 奥野克己+清水高志「今日のアニミズム」以文社、2021
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平野真美 | Mami Hirano
1989年 岐阜県出身。2014年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程先端藝術表現専攻修了。
闘病する愛犬や、架空の生物であるユニコーンなど、対象とする生物の骨や内臓、筋肉や皮膚など構成するあらゆる要素を忠実に制作することで、実在・非実在生物の生体構築、生命の保存、または蘇生に関する作品制作を行う。不在と死、保存と制作、認知と存在に関する思索を深め、現代の私たちはいかにそれらと向き合うのかを問いかける。
主な発表に「ab-sence/ac-cept 不在の観測」(岐阜県美術館、2021)、「2018年のフランケンシュタイン バイオアートにみる芸術と科学と社会のいま」(EYE OF GYRE、2018)、「平野真美 個展 変身物語METAMORPHOSES」(3331 Arts Chiyoda、2021)など。
平野真美 – 都市にひそむミエナイモノ展 Invisibles in the Neo City
2023年12月15日 – 2024年3月10日
SusHi Tech Square 1F
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