Exhibition

長田奈緒「目前を見回す」

2023年9月9日(土)- 10月8日(日)

この度、Maki Fine Artsは新スペース(新宿区天神町77-5 ラスティックビルB101)に移転し、9月9日(土)より10月8日(日)まで、長田奈緒 個展「目前を見回す」を開催いたします。

シンプルな重なり
中尾拓哉(美術評論家/芸術学)

 対象aとbがある。aとbはともにイメージであるかもしれないし、ともに物体であるかもしれない。あるいは、aとbはそれぞれにイメージと物体、もしくは物体とイメージであるかもしれない。
 長田奈緒は、「すでにあるもの」の「イメージ」を――写真に写し、版に写し、素材に写し――複製する。素材となる「物体」もまた「すでにあるもの」である。「すでにあるもの」のイメージは塗膜となり、そしてその塗膜は支持体に写される。「イメージ」をa、「物体」をbとするならば、「b(すでにあるもの)→a(撮影した像)→b(塗膜)→b(支持体)」と移されていく。つまり「既存のイメージが支持体に転写される」という長田の作品の状態は、「塗膜」としての「(物体=イメージ+物体)」と「支持体」である「+物体」の組み合わせとなり、「(b=a+b)+b」となる。
 aである「イメージ」は「非在」、bである「物体」は「実在」である。ただし、長田の作品においては、モチーフとなる「すでにあるもの」、そのとある状態を撮影した写真、その写真の印刷、その印刷がなされる素材が既製品というように、「複製」が連続していることが重要なのだ。

a=イメージ[複製]
ほとんど誰も気にとめない差異において、二つのものが同一となり、それゆえに複製として認識されている。複製は同じであることにこそ価値を置くが、気にとめるか、とめないかは別として、必ず差異が発生する。陳列され、反復される同一のイメージは、所有によって一つの固有性を宿すものへと変わる。

b=物体[複製]
物体は「版」あるいは「型」によって、二次元、三次元に複製される。フィルムやデータ、およびシルクスクリーンの「版」は、紙や布、それ以外の素材へと印刷され、また素材は「型」によって複製物となる。ただし「版」と「型」による複製物は、ズレや個体差、すなわち染み、汚れ、皺、傷を含みもつ。

 これらは複製一般の、「イメージ」および「物体」についての記述である。長田の作品において、「すでにあるもの」および「既製品」の「イメージ」は「塗膜」として印刷(複製)され、同時に「すでにあるもの」および「既製品」の「物体」が「支持体」となる。そして、それらすべてが「すでにあるもの」の複製となるのであれば、「複製のイメージ=a」は塗膜として「複製の物体=b」となり、支持体となる「複製の物体=b」と二重に、、、重なる。長田はこの「(b=a+b)+b」という「(物体=イメージ+物体)+物体」のaとbすべてに複製を重ね、最終的に、それらが一つの「すでにあるもの」として認識される(ように見える)状態をつくり出している、ということになるのだ。
 ただし、大抵の場合、塗膜と支持体は一つとなっていない(例えば、ダンボールのイメージがダンボールの物体に重ねられることはない)。例外はあるにせよ、「イメージ」と「物体」は個別に複製であることを主張していることが多い。この複製の「イメージ」と複製の「物体」の重なりから派生する、別のフレームについて考える必要がある。

a’=イメージ[レディメイド]
レディメイドはアートワールドにおけるコンテクストが与えられ、解釈の広がりをもつ。マルセル・デュシャンがレディメイドの影を写真に写し、アンディ・ウォーホルがレディメイドのデザインを版に写し、ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイスがレディメイドを本物と見分けられない別の素材に写したことが想起される。

b’=物体[レディメイド]
レディメイドはそれ自体が個別のメディウムとしての性質をもつ。チューブ絵具がキャンバスに載せられれば絵画になり、像が印画紙に転写されれば写真となるように、イメージは異なる支持体、すなわち紙、布、木、石、金属、アクリル、鏡、ガラス、窓、建築物の一部など、別のメディウムへと写されることによって作品化される。

 「すでにあるもの」としての「イメージ」と「物体」の重なりには、非芸術としての既製品「a+b」と、芸術としてのレディメイド「a’+b’」という視線が重なる。したがって、「(b=a+b)+b」という複製の重なりには、「既製品」であるA=非芸術と、「レディメイド」であるB=芸術を重ねる、「A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}」というフレームが潜在することになる。
 長田は対象aと対象bの「既製品/レディメイド」を選び、aを撮影し、bに印刷し、新たな「イメージ/物体」を創出する。そして、何よりも重要なのは、そのイメージが「既製品/レディメイド」として使用されながらも、廃棄されるもの、、、、、、、の方である、ということである。より正確には、その視線は廃棄されるものの痕跡、、に向けられているのだ。
 長田がイメージとして選んだ「すでにあるもの」のなかには、例えば既製品というコンテンツを「包む」、「支える」、あるいは「包んでいた」、「支えていた」ものとして、複製の周縁性をいっそう強調するものが散見される。そして、塗膜と支持体は、明確にそれぞれが異なるメディウムとして重ねられている。このとき、その痕跡のイメージは、A=非芸術であることを装いながら、選択されたメディウムを支持体にして写されたものという意味でB=芸術であるという様態をあらわにするのだ(メディウムの選択は恣意的であるが、実用性が剥奪されているという意味で、アートワールドにおける作品性が表れている)。こうして、染み、破れ、皺、傷などのあらゆる固有性は「痕跡=タッシュ(tache)」に重なる位置へと移されるのである。
 塗膜と支持体は「平面」で合わさっている。その「絵画=二次元」的な染み、汚れ、および「彫刻=三次元」的な皺、傷は、三次元化せずに二次元のまま、しかも三次元性をコピーした「絵画=二次元」的な「イリュージョン」として支持体に写される。このとき複製は模倣(ミメーシス)として、「痕跡/タッシュ」をもった「既製品/レディメイド」を写す、物体のイメージ化(二次元化)であり、別のメディウムに写されることによる「既製品/レディメイド」のイメージの物体化(三次元化)でもある。この作品化のプロセスが、絵画・彫刻的な「コンテンツ」を、包み、支え、そして廃棄されていく、日常(生活)と芸術(制作)のいずれにおいてもにある、中心ではなく周縁に「すでにあるもの」の「イメージ」と「物体」によってなされるのだ。だからこそ、非芸術=Aに「生活/制作」のサイクルという一つの日常を入れ子構造として取り込み、そのイメージ化、物体化をB=芸術に固定させず、A=非芸術へと返すことともなる。
 こうして長田の作品は、「既製品/レディメイド」の非芸術と芸術のフレーム、「A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}」の重なりの上で、非芸術と芸術を回転させる。A=非芸術である「痕跡」はB=芸術となり、B=芸術である「タッシュ」はA=非芸術となるように。「オリジナル」と「コピー」、あるいは「アウラ」と「非アウラ」の正位置となる「芸術作品としてのイメージの固有性」とそれを支える「複製としての支持体の複数性」が逆位置となるのである。すなわち、「B[A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}]+A[A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}]」となる。それは「複製としての支持体の複数性」に固有性を与え、「芸術作品としてのイメージの固有性」に複数性を与える、という状態の重なりとなるのだ。印刷のズレのように、既製品の個体差のように。対象aとbがある。そのシンプルな重なりにおいて。

長田奈緒 | Nao Osada
1988年生まれ。2016年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。身近にあるもの(例えばamazonのダンボール箱、Ziplocのフリーザーバッグなど)の表面の要素を、シルクスクリーンを用いて、実際とは異なる素材(木材やアクリル板など)の表面に刷った作品を制作。
近年の主な展示として、グループ展「日本国憲法展」(2023年/無人島プロダクション)、グループ展「メディウムとディメンション Liminal」(2022年/柿の木荘)、個展「少なくとも一つの」(2022年/Maki Fine Arts)、グループ展「感性の遊び場」(2022年/ANB Tokyo)、個展「I see…」(2022年/NADiff Window Gallery)など。