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パターンと距離
伊藤誠 | 益永梢子 | 佐々木耕太 | 長田奈緒 | 堀田ゆうか
伊藤誠 | Makoto Ito
様々な素材を用いた立体作品は、フォーマルでありながら軽やかでユーモアがあり、同時代の彫刻の可能性を体現しています。
「青空」(2017年制作) は、ある地点から見える遠景をモチーフに、至近距離で触れるものとして表現した作品の一つです。この作品は、遠くに見える送電線に取り付けられている鳥害防止器具を写真撮影したものをモチーフとしています。実際の風景の縮図を、彫刻として変換された場合の距離の尺度が表出されます。「青空」に加え、新作も発表予定です。
1955年愛知生まれ。武蔵野美術大学大学院 造形研究科彫刻コース修了。近年の主な展示として、個展(2024年 / ガレリア フィナルテ)、「第Ⅰ期 コレクターズ・アイ1 90年代を中心に」(2024年 / 豊橋市美術館)、「Group Show – 豊嶋康子 | 荻野僚介 | 伊藤誠」(2023-24年 / Maki Fine Arts)、「DOMANI・明日展 2022–23」(2022-23年 / 国立新美術館)、「heliotrope(ヘリオトロープ)」(2022年 / 照恩寺)、「オムニスカルプチャーズ—彫刻となる場所」(2021年/ 武蔵野美術大学美術館)など。
益永梢子 | Shoko Masunaga
絵画を起点として、多様な手法により制作。周囲の環境・空間との関係性を重視する作品群は可変的で置換可能な性質を持ちます。
「Session」(2023年制作)は、いくつかのシェイプト・キャンバスによる組み合わせにより形成されています。隣り合う作品と呼応するかのように、色彩や線、パターンが柔らかに繋がり合い、豊かな関係を紡いでいく造形によるものです。
1980年 大阪生まれ。2001年 成安造形短期大学造形芸術科卒業。近年の主な展示として、「MEMORIES」(2023年 / CADAN有楽町)、「Ginza Curator’s Room #005天使のとまり木」(2023年 / 思文閣銀座)、個展「その先の続き」(2023年/ Maki Fine Arts)、個展「editing」(2022年/nidi gallery)、個展「replace」(2021年/LOKO Gallery)、グループ展「Ordinary objects」(2020年/Maki Fine Arts)、個展「Box, Box, Box」(2019年/Cooler Gallery)、「クリテリオム93 益永梢子」(2018年/水戸芸術館現代美術ギャラリー)など。
佐々木耕太 | Kota Sasaki
3DCGを用いて、アトリエやギャラリー等の空間を描くなど、2Dと3Dを交差するペインティング作品を制作。
「Untitled」は、絵具の厚みでできた画面の上から、ストライプのパターンを描いた作品です。パターン(2次元)を、凹凸に形成された支持体(3次元)へと描き込まれ、見る角度により視覚的な揺らぎが生まれます。イメージが圧縮されたようなイリュージョンを画面に与え、「見ること」を意識されられます。
1982年千葉県生まれ。2012年 東京造形大学造形学部美術学科絵画専攻卒業。近年の主な展覧会として、「Textural Synthesis」(2024年 / 三越コンテンポラリー)、「メディウムとディメンション:Liminal」(2022年 / 柿の木荘)、「佐々木耕太 花木彰太 aai oua」(2022年 / See Saw gallery+hibit) 、個展「Cut and Paste」(2021年 / LOOP HOLE)、「Trace」(2020年 / CAVE-AYUMI GALLERY )、「佐々木耕太+中尾拓哉Some or Same」(2019年 /アートラボはしもと)、「ignore your perspective 47 Pop-up Dimension 次元が壊れて漂う物体」(2018年 / 児玉画廊)、個展「Model」(2018年 / CAVE-AYUMIGALLERY)など。
長田奈緒 | Nao Osada
身近にあるものの表面の要素を、シルクスクリーンを用いて、実際とは異なる素材の表面に刷った作品を制作。
紙やすりを題材とした「Surface Preparation (Sandpaper 3M)」は、その表面と裏面のイメージが同型の真鍮に刷られており、2つの作品が重なり合う構造になっています。長田の作品は、日常で廃棄されていく些細なものに「はかなさ」を見出し、繊細で詩的な存在へと昇華させていきます。鑑賞者にささやかな気付きを促し、その現実観を揺らがしていきます。
1988年生まれ。2016年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。近年の主な展示として、「VOCA展2024」(2024年 / 上野の森美術館)、個展「目前を見回す」(2023年 / Maki Fine Arts)、個展「紙を持つ手は紙」(2023年 / ギャラリーそうめい堂)、「日本国憲法展」(2023年/無人島プロダクション)、「メディウムとディメンション Liminal」(2022年/柿の木荘)、個展「少なくとも一つの」(2022年/Maki Fine Arts)、「感性の遊び場」(2022年/ANB Tokyo)、個展「I see…」(2022年/NADiff Window Gallery)など。
堀田ゆうか | Yuka Hotta
絵画を起点とし、ドローイングやインスタレーションを軸に制作。近作では版表現を作品に組み込むなど、様々なメディアを介したドローイングも試みています。
「C」と名付けられた作品シリーズは、身体的感覚によって描かれた手探りの行為の痕跡です。自由自在で開放的なストロークは、生気を伴った感覚を頼りに描かれ、呼吸を感じされるようなイメージが表出されています。
1999年 愛知県生まれ。現在、東京藝術大学大学院 美術研究科絵画専攻在籍。近年の主な展覧会として、「act. Inframince」(2024年 / OGUMAG)、「a hue and cry. 」(2024年 / アートかビーフンか白厨)、「バグスクール:うごかしてみる!」(2023年 / BUG)、個展「からです」(2023年 / APどのう)、個展「pppractice」(2023年 / フラットリバーギャラリー)、個展「ない関節」(2023年、亀戸アートセンター)、「うららか絵画祭」(2023年 / The 5th Floor)など。
長田奈緒「目前を見回す」
Packing material(Saltimbanque)
2023年
シルクスクリーン、UVインクジェット、アクリル
28 x 33 x 0.5 cm
Stained paper cup(Cola)
2023年
シルクスクリーン、大理石
9 x 11 x 1 cm
Packing material(tape)
2023年
シルクスクリーン、UVインクジェット、アクリル
26 x 37 x 0.2 cm
Silica gel and pebbles
2022年
シルクスクリーン、UVインクジェット、アクリル、小石
4.5 x 6.7 x 0.5 cm
この度、Maki Fine Artsは新スペース(新宿区天神町77-5 ラスティックビルB101)に移転し、9月9日(土)より10月8日(日)まで、長田奈緒 個展「目前を見回す」を開催いたします。
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シンプルな重なり
中尾拓哉(美術評論家/芸術学)
対象aとbがある。aとbはともにイメージであるかもしれないし、ともに物体であるかもしれない。あるいは、aとbはそれぞれにイメージと物体、もしくは物体とイメージであるかもしれない。
長田奈緒は、「すでにあるもの」の「イメージ」を――写真に写し、版に写し、素材に写し――複製する。素材となる「物体」もまた「すでにあるもの」である。「すでにあるもの」のイメージは塗膜となり、そしてその塗膜は支持体に写される。「イメージ」をa、「物体」をbとするならば、「b(すでにあるもの)→a(撮影した像)→b(塗膜)→b(支持体)」と移されていく。つまり「既存のイメージが支持体に転写される」という長田の作品の状態は、「塗膜」としての「(物体=イメージ+物体)」と「支持体」である「+物体」の組み合わせとなり、「(b=a+b)+b」となる。
aである「イメージ」は「非在」、bである「物体」は「実在」である。ただし、長田の作品においては、モチーフとなる「すでにあるもの」、そのとある状態を撮影した写真、その写真の印刷、その印刷がなされる素材が既製品というように、「複製」が連続していることが重要なのだ。
a=イメージ[複製]
ほとんど誰も気にとめない差異において、二つのものが同一となり、それゆえに複製として認識されている。複製は同じであることにこそ価値を置くが、気にとめるか、とめないかは別として、必ず差異が発生する。陳列され、反復される同一のイメージは、所有によって一つの固有性を宿すものへと変わる。
b=物体[複製]
物体は「版」あるいは「型」によって、二次元、三次元に複製される。フィルムやデータ、およびシルクスクリーンの「版」は、紙や布、それ以外の素材へと印刷され、また素材は「型」によって複製物となる。ただし「版」と「型」による複製物は、ズレや個体差、すなわち染み、汚れ、皺、傷を含みもつ。
これらは複製一般の、「イメージ」および「物体」についての記述である。長田の作品において、「すでにあるもの」および「既製品」の「イメージ」は「塗膜」として印刷(複製)され、同時に「すでにあるもの」および「既製品」の「物体」が「支持体」となる。そして、それらすべてが「すでにあるもの」の複製となるのであれば、「複製のイメージ=a」は塗膜として「複製の物体=b」となり、支持体となる「複製の物体=b」と二重に重なる。長田はこの「(b=a+b)+b」という「(物体=イメージ+物体)+物体」のaとbすべてに複製を重ね、最終的に、それらが一つの「すでにあるもの」として認識される(ように見える)状態をつくり出している、ということになるのだ。
ただし、大抵の場合、塗膜と支持体は一つとなっていない(例えば、ダンボールのイメージがダンボールの物体に重ねられることはない)。例外はあるにせよ、「イメージ」と「物体」は個別に複製であることを主張していることが多い。この複製の「イメージ」と複製の「物体」の重なりから派生する、別のフレームについて考える必要がある。
a’=イメージ[レディメイド]
レディメイドはアートワールドにおけるコンテクストが与えられ、解釈の広がりをもつ。マルセル・デュシャンがレディメイドの影を写真に写し、アンディ・ウォーホルがレディメイドのデザインを版に写し、ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイスがレディメイドを本物と見分けられない別の素材に写したことが想起される。
b’=物体[レディメイド]
レディメイドはそれ自体が個別のメディウムとしての性質をもつ。チューブ絵具がキャンバスに載せられれば絵画になり、像が印画紙に転写されれば写真となるように、イメージは異なる支持体、すなわち紙、布、木、石、金属、アクリル、鏡、ガラス、窓、建築物の一部など、別のメディウムへと写されることによって作品化される。
「すでにあるもの」としての「イメージ」と「物体」の重なりには、非芸術としての既製品「a+b」と、芸術としてのレディメイド「a’+b’」という視線が重なる。したがって、「(b=a+b)+b」という複製の重なりには、「既製品」であるA=非芸術と、「レディメイド」であるB=芸術を重ねる、「A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}」というフレームが潜在することになる。
長田は対象aと対象bの「既製品/レディメイド」を選び、aを撮影し、bに印刷し、新たな「イメージ/物体」を創出する。そして、何よりも重要なのは、そのイメージが「既製品/レディメイド」として使用されながらも、廃棄されるものの方である、ということである。より正確には、その視線は廃棄されるものの痕跡に向けられているのだ。
長田がイメージとして選んだ「すでにあるもの」のなかには、例えば既製品というコンテンツを「包む」、「支える」、あるいは「包んでいた」、「支えていた」ものとして、複製の周縁性をいっそう強調するものが散見される。そして、塗膜と支持体は、明確にそれぞれが異なるメディウムとして重ねられている。このとき、その痕跡のイメージは、A=非芸術であることを装いながら、選択されたメディウムを支持体にして写されたものという意味でB=芸術であるという様態をあらわにするのだ(メディウムの選択は恣意的であるが、実用性が剥奪されているという意味で、アートワールドにおける作品性が表れている)。こうして、染み、破れ、皺、傷などのあらゆる固有性は「痕跡=タッシュ(tache)」に重なる位置へと移されるのである。
塗膜と支持体は「平面」で合わさっている。その「絵画=二次元」的な染み、汚れ、および「彫刻=三次元」的な皺、傷は、三次元化せずに二次元のまま、しかも三次元性をコピーした「絵画=二次元」的な「イリュージョン」として支持体に写される。このとき複製は模倣(ミメーシス)として、「痕跡/タッシュ」をもった「既製品/レディメイド」を写す、物体のイメージ化(二次元化)であり、別のメディウムに写されることによる「既製品/レディメイド」のイメージの物体化(三次元化)でもある。この作品化のプロセスが、絵画・彫刻的な「コンテンツ」を、包み、支え、そして廃棄されていく、日常(生活)と芸術(制作)のいずれにおいても隅にある、中心ではなく周縁に「すでにあるもの」の「イメージ」と「物体」によってなされるのだ。だからこそ、非芸術=Aに「生活/制作」のサイクルという一つの日常を入れ子構造として取り込み、そのイメージ化、物体化をB=芸術に固定させず、A=非芸術へと返すことともなる。
こうして長田の作品は、「既製品/レディメイド」の非芸術と芸術のフレーム、「A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}」の重なりの上で、非芸術と芸術を回転させる。A=非芸術である「痕跡」はB=芸術となり、B=芸術である「タッシュ」はA=非芸術となるように。「オリジナル」と「コピー」、あるいは「アウラ」と「非アウラ」の正位置となる「芸術作品としてのイメージの固有性」とそれを支える「複製としての支持体の複数性」が逆位置となるのである。すなわち、「B[A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}]+A[A{(b=a+b)+b}+B{(b’=a’+b’)+b’}]」となる。それは「複製としての支持体の複数性」に固有性を与え、「芸術作品としてのイメージの固有性」に複数性を与える、という状態の重なりとなるのだ。印刷のズレのように、既製品の個体差のように。対象aとbがある。そのシンプルな重なりにおいて。
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長田奈緒 | Nao Osada
1988年生まれ。2016年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。身近にあるもの(例えばamazonのダンボール箱、Ziplocのフリーザーバッグなど)の表面の要素を、シルクスクリーンを用いて、実際とは異なる素材(木材やアクリル板など)の表面に刷った作品を制作。
近年の主な展示として、グループ展「日本国憲法展」(2023年/無人島プロダクション)、グループ展「メディウムとディメンション Liminal」(2022年/柿の木荘)、個展「少なくとも一つの」(2022年/Maki Fine Arts)、グループ展「感性の遊び場」(2022年/ANB Tokyo)、個展「I see…」(2022年/NADiff Window Gallery)など。
長田奈緒「少なくとも一つの」
Printed sprayed paints
2022年
木材、シルクスクリーン
61 x 49.5 x 17 cm
Maki Fine Artsでは9月17日(土)より11月6日(日)まで、長田奈緒 個展「少なくとも一つの」を開催します。Maki Fine Artsでは約2年ぶり、2回目の個展となります。是非ご覧ください。
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「刷られている(なにか)」と「見えている(なにか)」-長田奈緒の芸術
梅津元(芸術学)
キャンディが取り出され、包装という役目を終え、後は廃棄を待つだけの、取るに足らない、なにか。初めて実見した長田奈緒の作品《Candy wrapper(LIETTA LIGHT) 》(2019)は、その「なにか」を、ポリエチレンにシルクスクリーンという技法によって再現した作品だった。容易には見つけられず、ようやく発見した時には、はっと息を飲むような瞬間が訪れた。さりげなく、つつましい佇まいに見えながら、これが作品なのだと了解してからも、驚きの感覚が持続し、見れば見るほど、確固たる作品世界が打ち立てられていることに、心底驚かされることになった。これが作品なのかという驚き。対象を忠実に再現する技術に対する驚き。作者の介入がまるで無化されているように見えることへの驚き。それだけではない、「なにか」への驚き。
そうした驚きは、優れた芸術作品と遭遇した時の感覚と共通する側面もある。しかし、それ以後、長田の作品を実見する機会を重ねる度に確かに得られる「驚きが持続する感覚」は、長田の芸術が、独自の世界を出現させつつあることを予感させてくれる。日常的にありふれたモノ、とりたてて注意を払われないモノ、そうしたモノをモチーフとする長田の作品は、モノが自立して存在する世界という感覚を醸し出しており、その感覚は、ボードリヤールによるモノについての記述を想起させるだろう。
「モノはまるで情熱を授けられているように私には思えた。すくなくとも、固有の生命をもち、使用されるモノという受動性からぬけだして、ある種の自立性を獲得し、おそらく、モノを支配できると確信しすぎている主体に復讐する能力を手に入れていると思えた。モノはこれまで、じっと動かずに沈黙する宇宙そのものであり、それを生産したという口実で人間が自由に使えるとみなされてきた。だが、私にとっては、この宇宙は、使用されるモノの範囲を越えて、みずから何か語るべきことがらを持つ宇宙だった。モノの宇宙は、何ごともそう単純にはすまない記号の支配権に入りこんだ。なぜなら、記号とはつねに事物の消滅のことだからである。モノが指示するのは、それゆえ現実世界であると同時に、現実世界の不在—-とくに主体の不在—-でもある。」[1]
ここで語られていることは、長田がモチーフとするモノについての記述として読むことが可能だろう。ならば、長田の作品は、まさしく、「モノの宇宙」を出現させようとしている。特筆すべきは、この引用の最後の「現実世界の不在—-とくに主体の不在—-」という指摘である。長田の作品を見ている時に、作者の存在は、ほとんど無化されている。作品の制作者である長田奈緒という「主体の不在」。また、長田の作品を見ている時に、私が見ているという感覚も、極めて希薄である。作品の鑑賞者である私という「主体の不在」。長田の作品から感じられる「驚きが持続する感覚」は、制作においても、鑑賞においても、「主体の不在」が感じられ、その経験から「現実世界の不在」さえもが指示されていることに、導かれている。
ここまでの議論は、長田がモチーフとしているモノについてのものである。しかし、長田の作品は、モノそのものではなく、対象となるモノを忠実に再現した「なにか」である。だから、長田の作品を見ることに注目し、長田が再現する「なにか」について考えなければならい。端的に言えば、長田の作品と遭遇した時の驚きの感覚は、「見る(こと)」と「見えている(なにか)」の相違に由来する。例えば、乾燥剤をモチーフとした作品は、同じ製品であっても、個体ごとに違いがあること、同じ個体でも、その時々で変化があることを、示している。長田の作品においては、デザインや文字など、製品としての乾燥剤に付与されている記号的な視覚情報のみではなく、個体ごとの形状や質感など、物体としての存在様態までもが、刷られている。
つまり、「刷られている(なにか)」である長田の作品に向き合う時には、「見る(こと)」という能動的な行為に至る以前の、「見えている(なにか)」が、経験されるのである。しかしながら、「刷られている(なにか)」に向き合う経験は、「見えている(なにか)」を感受することにとどまらず、不可避的に、「見る(こと)」という能動的な行為を起動させる。視覚情報が知覚を経由して意味や認識へと至り、製品としての乾燥剤が想起される。そのとき、各個体の個別性は捨象され、同じ製品としての「同一性」が認識を支配する。しかし、向き合っているのは、製品としての乾燥剤ではなく、長田の作品なのであり、ひとつひとつのモノとしての存在様態が、個体の個別性を際立たせ、視覚を経由する知覚が、それぞれの個体の「特定」を可能にする。
作品の対象が量産品であるとしても、作品化にあたり、その量産品が複製されているとしても、それがどうしたのだ、と言わんばかりに、長田の作品は、ひとつひとつが、個体としての個別性を主張している。これはこれ、それはそれ、というように。このように、長田の作品において、「刷られている」のは「見えている(なにか)」である。そして、「刷られている(なにか)」が出現させる「見えている(なにか)」は、「見る(こと)」という機能を起動しようとする。しかし、モノから長田の作品が出現する過程は不可逆的であり、対象となったモノを「見る(こと)」には永遠に到達せず、起動したはずの「見る(こと)」は、その機能を十全に果たすことができないまま、「見えている(なにか)」との往還を繰り返すしかない。驚きの持続とは、このような、果てることのない、視覚と認識の往還のことでもあるだろう。
別な例をあげよう。例えば、ブックカバーをモチーフとする〈book wrapper〉(2021)のシリーズ(このシリーズはインクジェット・プリントによる)。このシリーズでは、書店が提供する紙のブックカバーが、一枚の紙として再現されているように見える。しかし、「ブックカバーというモノが複製されている」のではない。本の表紙を包むように両端が折り曲げられ、本が不在の状態で自立している作品において、そのような状態で自立している「ブックカバーを見ることが複製されている」。しかし、この記述は正確ではない。まず、「複製」は、「ブックカバーというモノ」の「複製」との対比から導かれているに過ぎず、不正確である。「見ること」が作品のモチーフである場合、モノのように「複製」のもとになるオリジナルな事象は、存在していない。
次に、「見ること」も不正確である。この作品のモチーフは、「ブックカバーを見ること」ではなく、「ブックカバーが見えている状態」である。「見る」という能動的な行為は、「見えている」情報を、文字、デザイン、形状、素材などの読み取りや、自立しているという状態の読み取りへと接続してしまう。「見ること」を対象とする作品化はデッサンや絵画に近似するが、長田は、そうではなく、視覚情報が意味や認識へと接続される以前の「見えている(なにか)」を作品化の対象とする。従って、「ブックカバーを見ることが複製されている」という記述を「ブックカバーが見えている状態がモチーフとなっている」へと改めなくてはならない。
そして、そのような作品化は、デッサンや絵画よりも写真に近似し、長田の制作に介在する、写真を撮影する工程の重要さを浮き上がらせる。ならば、モノについて、イメージについて、そして、写真について、深い洞察を示した、ボードリヤールの言葉が、再び想起されるのは、必然的なことなのだろう。
「ずっと以前から、われわれは、われわれ人間なしで進行する世界という奥深い幻覚を抱いているのではないだろうか。人間的な、あまりにも人間的なあらゆる意思から逸れて、われわれ人間のいない状態の世界を見たいという、詩的誘惑を感じているのではないだろうか。詩的言語の強烈な快楽とは、言語がそれ自体によって、その物質性、その文字性をつうじて、意味を経由せずに機能するのを見とどけることである—-そのことが、われわれを魅了する。」[2]
ここで、最後の一文を、長田の作品についての記述として、以下のように読んでみたい誘惑にかられる。
「長田奈緒の芸術の強烈な快楽とは、イメージがそれ自体によって、その物質性、その平面性をつうじて、意味を経由せずに機能するのを見とどけることである—-そのことが、われわれを魅了する。」
「意味を経由せずに機能する」という記述は、今回の個展において発表される新作の本質を言い当てているように感じられる。「少なくともと一つの」と題された今回の個展において発表される〈Printed sprayed paints〉(2022)は、これまでの作風とはやや異なる印象をもたらすだろう。壁に立てかけられた数枚の木板には、スプレーによるペイントが見える。しかし、スプレーによるペイントと見えるその色彩は、シルクスクリーンによって刷られたものである。スプレーによるペイントは長田自身の手によるものであり、その点は、既存のモノをモチーフとしてきたこれまでの作品と異なる。しかし、長田は、今回のモチーフが自身の手によるものであることに過剰な意味を持たせておらず、他人の手によるスプレーのペイントも許容される。ならば、今回のモチーフの設定は、長田の作品が既存のモノに依存してはいないことを示しているのだろう。
何枚かの木板が、重なるように壁に立てかけられているが、前の板に覆い隠されている領域にも、スプレーによるペイントが刷られている。まるで、スプレーのペイントが、複数の木版を浸透しているかのようである。木板はアクリル板のように感じられ、視覚的な透明性が感受される。さらに、木版が透明なパネルと化してしまう感覚にとどまらず、その透明なパネルが、布のように、重なり合うパネルへと、スプレーの噴霧を浸透させているように感じられる。視覚的な透明性と物質的な浸透性が感受され、スプレーの噴霧という痕跡だけが、複数の板状の物体をものともせず、見えてくる。この時、視覚的な透明性と、物質的な浸透性が、まさに、「意味を経由せずに機能する」。このような感覚は、痕跡の複製としての今回の新作が、これまでの長田の作品と通底しており、さらなる進化と深化を予感させるものであることを示している。
長田の作品に向き合うと、その作品が存在を許容される世界を体験する。現実世界において、現実の時間と空間の中で、私自身の身体と精神を駆使している以上、長田の作品が存在を許容される世界を、私はすでに経験しており、その世界の存在を、確かな手応えとともに、実感している。しかし、私は、この現実世界から、長田の作品が存在を許容される世界へと移行してしまうわけではない。現実の世界に存在しながら、芸術の世界を経験するのである。「刷られている(なにか)」から感受される「見えている(なにか)」、その(なにか)について考えるために、最後に、もう一度、ボードリヤールの最晩年の言葉に、耳を傾けてみよう。長田の作品に「刷られている(なにか)」、長田の芸術に向き合うことから感受される「見えている(なにか)」と、以下の記述においてボードリヤールが執拗に暴き出そうとしている「何か」を、ショートさせながら。
「真実あるいは現実性のほかに、最後のところで何かがわれわれに抵抗する。
何かが、原因と結果の連鎖のなかに世界を閉じこめようとするわれわれのあらゆる努力に抵抗する。
現実性の外部というものが存在している(だが、ほとんどの文化にはこの概念さえない)。それはいわゆる「現実的な」世界以前の何か、還元不可能な何かであり、始原の幻想に結びつき、また、あるがままの世界にどんなものであれ究極的な意味を与えることの不可能性に結びついている。」[3]
註
[1]ジャン・ボードリヤール『パスワード』塚原史訳, NTT出版, 2003年, 14-15頁。
[2]ジャン・ボードリヤール『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』塚原史訳, 筑摩書房, 2009年, 34頁。
[3]ジャン・ボードリヤール『悪の知性』塚原史・久保昭博訳, NTT出版, 2008年, 36-37頁。
※本稿のタイトルにおける(なにか)という表記は、長田による前回の個展(Maki Fine Arts, 2020)のタイトル「大したことではない(なにか)」をふまえている。
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長田奈緒 |Nao Osada
1988年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。主な個展として、「I see…」NADiff Window Gallery(2022年)、「大したことではない(なにか)」Maki Fine Arts(2020年)、「息を呑むほどしばらく」Open Letter(2018年)。グループ展に「感性の遊び場」ANB Tokyo(2022年)、「Shibuya Hikarie Contemporary Art Eye Vol.15 3人のキュレーション:美術の未来」渋谷ヒカリエ CUBE(2021年)、「Encounters in Parallel」ANB Tokyo(2021年)、「アレックス・ダッジ、末永史尚、長田奈緒 by Maki Fine Arts」CADAN有楽町(2021年)、「描かれたプール、日焼けあとがついた」東京都美術館(2020年)など。
長田奈緒「大したことではない(なにか)」
Oshibori(Omotenashi)
2020年
シルクスクリーン、ガラスエッチング、額
30.8 x 40 x 2 cm
Maki Fine Artsでは7月11日(土)より、長田奈緒 個展「大したことではない(なにか)」を開催します。長田は、身近にあるもの(例えばamazonのダンボール箱、Ziplocのフリーザーバッグなど)の表面の要素を、シルクスクリーンを用いて、実際とは異なる素材(木材やアクリル板など)の表面に刷った作品を制作しています。目を凝らすとその質感の微細な差異を発見することができ、知覚的な驚きをもたらします。私たちが日常的に見慣れたイメージを、丁寧に拾い出し、版を通じて各素材に落とし込み、精密なオブジェクトとして変換しています。丹念な手作業によるシルクスクリーン技術の実験的積み重ねによって、イメージとマテリアルを調和的に掛け合わせることを実現化します。作品のひそやかなの外見とは対照的に、モチーフとなる題材を選び出す、軽やかでユーモラスな視点は、鑑賞者の感覚をくすぐるようであり、長田の作品の特徴であるといえるでしょう。
本展はMaki Fine Artsでは初の個展となります。おしぼりや食品パッケージ、さらには梱包用シールなど、ささやかな題材の新作が集積され、ギャラリー空間に散りばめられます。是非ご高覧下さい。
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自分の作品を英語で説明するために、trivialという単語の意味を調べた。
ささいな、つまらない、ありふれた、いくつかの日本語に加えて「大したことではない(なにか)」という解説を見つけた。
trivialという言葉で言い表そうとしていたはずのものが、むしろ言い当てられたようだった。大したことではない、でも『なにか』であるものに向き合って制作している。
長田奈緒
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長田奈緒 | Nao Osada
1988年神奈川生まれ。2016年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。近年の主な展示に、グループ展「outline」(2019年、Maki Fine Arts)、グループ展「Smooth Accident 踏み外された版画の展覧会 vol.1」(2019年、MA2 gallery)、個展「息を呑むほどしばらく」(2018年、 Open Letter)など。2020年9月より、都美セレクション グループ展 2020「描かれたプール、日焼けあとがついた」(東京都美術館 ギャラリーA)に参加予定。
「outline」 ドゥサディー・ハンタクーン / アマンダ・リッフォ / 金井学 / 長田奈緒 / 倉敷安耶
Highway 69
2015年
陶磁器
17 x 25 x 17cm
Maki Fine Artsでは7月18日(木)より、5名の作家によるグループ展「outline」を開催します。ミニマルな表現でありながら、自律性を維持し、マテリアルの実験や表層への考察を題材とする作品を紹介します。全作家がMaki Fine Artsでは初めての作品展示となります。この機会に是非ご覧ください。
ドゥサディー・ハンタクーンは1978年バンコク生まれ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校、カリフォルニア大学バークレー校卒業。主な展示に、「サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」(2017年、国立新美術館/ 森美術館)など。
アマンダ・リッフォはパリ生まれ、現在レイキャビクを拠点に活動している。2012年、2013年にアーティスト・イン・レジデンスで東京に滞在。主な個展に「It’s about time」(2013年、遊工房アートスペース)など。
金井学は1983年東京生まれ。2015年東京藝術大学 大学院美術研究科博士後期課程美術専攻(油画研究領域)修了。2015-16年メルボルン大学客員研究員。主な展示に「行為の編纂」(2018年、トーキョーアーツアンドスペース本郷)など。
長田奈緒は1988年神奈川生まれ。2016年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。主な展示に、グループ展「Smooth Accident 踏み外された版画の展覧会 vol.1」(2019年、MA2 gallery)、個展「息を呑むほどしばらく」(2018年、 Open Letter)など。
倉敷安耶は1993年神戸生まれ。2018年京都造形芸術大学 大学院 修士課程 芸術研究科 芸術専攻 (ペインティング領域)修了。現在、東京藝術大学 大学院修士課程 美術研究科 絵画専攻 (油画第一研究室)に在籍中。本展がデビューとなります。