末永史尚 「息づきの絵画」

2016年4月 2日 - 5月 1日

オープニング・レセプション:4月2日(土)18:00 - 20:00

Maki Fine Artsでは、2016年4月2日(土)より、末永史尚 個展「息づきの絵画」を開催します。

末永史尚は1974年山口県生まれ、東京造形大学(絵画専攻)卒業。近年の主な展覧会として、「引込線2015」(旧所沢市立第2学校給食センター/2015年)、「開館40周年記念 1974 第1部 1974年に生まれて」(群馬県立近代美術館/2014年)、「APMoA Project, ARCH vol. 11 末永史尚「ミュージアムピース」(愛知県美術館/2014年)など。またMaki Fine Artsの5周年記念として、グループ展「控えめな抽象」(2015年)をキュレーションしました。
Maki Fine Artsでは、2015年の個展「放課後リミックス」以来、2回目の個展となります。本展で発表される新作は、ロープ、消しゴム、付箋、コピー用紙、CDジャケット等をモチーフとしています。日常目にしている物を採寸し、同サイズのパネルにモチーフの表面の要素だけを抽出して描き写しています。要素を省略し、単純化していく手法は、従来の絵画システムから離れ、描くことの本質的な意味を鑑賞者に意識させます。是非ご高覧下さい。

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「末永さんの作品にないものとなくなるもの」
成相肇(東京ステーションギャラリー学芸員、基礎芸術)

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いきなり電気が落ちた真っ暗闇の中で、驚いた目玉だけが白く点灯し、キョロキョロしたりパチクリしたりする、というコミックの定型表現がある。なるほど眺めたり目を凝らす行為と、闇でライトを照らすこととの類似は感覚的にしっくりくる。あるいは、これは闇の中で見えなくても主観的な意識がしっかり働いていることを目玉に代理させた表現である、と解釈しても、感覚としてとてもわかるなと思っていた。が、さっき気づいたのだけど、あれはそもそも、泥や灰をかぶった人の開けた目だけが白く浮いて見える、という表現が先にあってから類型化したのではないのか。つまり暗闇の目玉表現は、闇を泥や灰などの手触りのある物質に見立てた描き方だと思うのだ。コミックにおいて闇や影はしばしば質量を持つ。絵画でもそうだろう。
末永さんの作品には影がない。それらがいつもまっさらで、清らかで、軽くて、どこかかわいらしいのは、すべて影が無いからだ。影の無さによって生成している、といったほうがよいだろうか。末永さんには発光するモニタを直截に描いたようなシリーズがあるけれど、あれはまさに光の集積でなく影の駆逐によって、というかマイナスの影を描くことによって、滑らかさや眩さが示されているのであって、ひいてはそれによって、この時代の視覚のあり方が言及されている。あるいは「柄(がら)」と呼びたくなるパターンを描いて平たさを強調するようなタイプの作品の場合も、その絵画っぽさを支えているのは、柄そのものよりも、起伏を省いた均質に影の無い面の広がりではないかと思う。
その上でおもしろくまたおそろしいのは、現実の影が差すことが不可避となる立体的な作品の場合、それでもなお塗られた面は、陰影をものともしないかのように見えることだ。末永さんの段ボール箱や水平器の、あの現実味の希薄さ。そこにはやっぱり影が無い! それは、概念の写しとしてのいわゆる模型の軽さときわどくすれ違う。不足が軽いのでなく、潤沢が軽いのだ。このところ末永さんが、立体物でなおかつ日用品の類をよく扱うのは、現実の影に対するこの色面の抵抗というプログラムを、よりスムーズに呼び込みまた際立たせるからだと、ぼくはいま考えている。

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ちょっとこじつけめいてしまうかもしれないけれど、末永さんの作品がそれこそ暗闇の中でも少なからず把握し得る立体の姿をしていること自体が、それらを見る体験を考える上で重要な示唆を持つと思うのだ。
絵でありつつ、なおかつ表面のみならず側面や裏面など複数の面を主張する末永さんの作品は、それゆえ、触ることができれば少なくとも形態を認識できる。といっても、実際に手を触れることが叶うか否かはいまは関係ない。ひとまず、是非ともここでは、目を閉じて何かの表面を手でまさぐる動作を思い浮かべてもらいたい。文字通りにいえば、見ないままの手探りは、表面上のイメージにおける連続性を無視して、一切を三次元的な面の位置関係として思い描く行為である。だが一方で、そこで触れている自分の皮膚に集中すれば、まるで正反対に、あらゆる三次元関係が無化されて、シームレスな一平面の連続へと統合してゆく感覚もたしかに生じるはずだ。
見ていることを例示するために見ないことを引いてくることは詭弁かもしれない。でも、末永作品を見るときに起こる視覚体験は、実感としてはこれと同じ状況ではないだろうか。
形態を概念的に思い浮かべるときのように、表面の連続性ないしイメージを無視すること。あるいは、指先の感覚に耽溺するときのように、俯瞰的な三次元性を無視すること。それら相互排他的な二種類の見落とし、、、、動作の併存は、すなわち末永作品を、絵のふりをした立体物として見るか、立体物のふりをした絵として見るか、その相互排他的な認識の併存と同義であるはずだ。立体を主体と捉えるならばイメージ(柄)は後退し、絵を主体と捉えれば立体感が後退する。この見落とし、、、、の往還の中に、末永さんの作品は発生する。だから末永さんの作品を見ることは、いつもちょっと遅延を伴う。身近に知っている(イメージと三次元性との一体にあらかじめ馴れている)ものの姿をしているから、なおさら遅れは増幅される。末永さんの作品がとても親密でなおかつ複雑なわけは、この遅延に由来するのではないか。

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末永史尚 / Fuminao Suenaga
「巻ロープ」/ "Rope"
2016
合板、和紙、木、アクリル絵具 / Plywood, Japanese paper, Wood, Acrylic
Φ13.5×9cm

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