Exhibition
長田奈緒「少なくとも一つの」
2022年9月17日 - 11月6日
Maki Fine Artsでは9月17日(土)より11月6日(日)まで、長田奈緒 個展「少なくとも一つの」を開催します。Maki Fine Artsでは約2年ぶり、2回目の個展となります。是非ご覧ください。
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「刷られている(なにか)」と「見えている(なにか)」-長田奈緒の芸術
梅津元(芸術学)
キャンディが取り出され、包装という役目を終え、後は廃棄を待つだけの、取るに足らない、なにか。初めて実見した長田奈緒の作品《Candy wrapper(LIETTA LIGHT) 》(2019)は、その「なにか」を、ポリエチレンにシルクスクリーンという技法によって再現した作品だった。容易には見つけられず、ようやく発見した時には、はっと息を飲むような瞬間が訪れた。さりげなく、つつましい佇まいに見えながら、これが作品なのだと了解してからも、驚きの感覚が持続し、見れば見るほど、確固たる作品世界が打ち立てられていることに、心底驚かされることになった。これが作品なのかという驚き。対象を忠実に再現する技術に対する驚き。作者の介入がまるで無化されているように見えることへの驚き。それだけではない、「なにか」への驚き。
そうした驚きは、優れた芸術作品と遭遇した時の感覚と共通する側面もある。しかし、それ以後、長田の作品を実見する機会を重ねる度に確かに得られる「驚きが持続する感覚」は、長田の芸術が、独自の世界を出現させつつあることを予感させてくれる。日常的にありふれたモノ、とりたてて注意を払われないモノ、そうしたモノをモチーフとする長田の作品は、モノが自立して存在する世界という感覚を醸し出しており、その感覚は、ボードリヤールによるモノについての記述を想起させるだろう。
「モノはまるで情熱を授けられているように私には思えた。すくなくとも、固有の生命をもち、使用されるモノという受動性からぬけだして、ある種の自立性を獲得し、おそらく、モノを支配できると確信しすぎている主体に復讐する能力を手に入れていると思えた。モノはこれまで、じっと動かずに沈黙する宇宙そのものであり、それを生産したという口実で人間が自由に使えるとみなされてきた。だが、私にとっては、この宇宙は、使用されるモノの範囲を越えて、みずから何か語るべきことがらを持つ宇宙だった。モノの宇宙は、何ごともそう単純にはすまない記号の支配権に入りこんだ。なぜなら、記号とはつねに事物の消滅のことだからである。モノが指示するのは、それゆえ現実世界であると同時に、現実世界の不在—-とくに主体の不在—-でもある。」[1]
ここで語られていることは、長田がモチーフとするモノについての記述として読むことが可能だろう。ならば、長田の作品は、まさしく、「モノの宇宙」を出現させようとしている。特筆すべきは、この引用の最後の「現実世界の不在—-とくに主体の不在—-」という指摘である。長田の作品を見ている時に、作者の存在は、ほとんど無化されている。作品の制作者である長田奈緒という「主体の不在」。また、長田の作品を見ている時に、私が見ているという感覚も、極めて希薄である。作品の鑑賞者である私という「主体の不在」。長田の作品から感じられる「驚きが持続する感覚」は、制作においても、鑑賞においても、「主体の不在」が感じられ、その経験から「現実世界の不在」さえもが指示されていることに、導かれている。
ここまでの議論は、長田がモチーフとしているモノについてのものである。しかし、長田の作品は、モノそのものではなく、対象となるモノを忠実に再現した「なにか」である。だから、長田の作品を見ることに注目し、長田が再現する「なにか」について考えなければならい。端的に言えば、長田の作品と遭遇した時の驚きの感覚は、「見る(こと)」と「見えている(なにか)」の相違に由来する。例えば、乾燥剤をモチーフとした作品は、同じ製品であっても、個体ごとに違いがあること、同じ個体でも、その時々で変化があることを、示している。長田の作品においては、デザインや文字など、製品としての乾燥剤に付与されている記号的な視覚情報のみではなく、個体ごとの形状や質感など、物体としての存在様態までもが、刷られている。
つまり、「刷られている(なにか)」である長田の作品に向き合う時には、「見る(こと)」という能動的な行為に至る以前の、「見えている(なにか)」が、経験されるのである。しかしながら、「刷られている(なにか)」に向き合う経験は、「見えている(なにか)」を感受することにとどまらず、不可避的に、「見る(こと)」という能動的な行為を起動させる。視覚情報が知覚を経由して意味や認識へと至り、製品としての乾燥剤が想起される。そのとき、各個体の個別性は捨象され、同じ製品としての「同一性」が認識を支配する。しかし、向き合っているのは、製品としての乾燥剤ではなく、長田の作品なのであり、ひとつひとつのモノとしての存在様態が、個体の個別性を際立たせ、視覚を経由する知覚が、それぞれの個体の「特定」を可能にする。
作品の対象が量産品であるとしても、作品化にあたり、その量産品が複製されているとしても、それがどうしたのだ、と言わんばかりに、長田の作品は、ひとつひとつが、個体としての個別性を主張している。これはこれ、それはそれ、というように。このように、長田の作品において、「刷られている」のは「見えている(なにか)」である。そして、「刷られている(なにか)」が出現させる「見えている(なにか)」は、「見る(こと)」という機能を起動しようとする。しかし、モノから長田の作品が出現する過程は不可逆的であり、対象となったモノを「見る(こと)」には永遠に到達せず、起動したはずの「見る(こと)」は、その機能を十全に果たすことができないまま、「見えている(なにか)」との往還を繰り返すしかない。驚きの持続とは、このような、果てることのない、視覚と認識の往還のことでもあるだろう。
別な例をあげよう。例えば、ブックカバーをモチーフとする〈book wrapper〉(2021)のシリーズ(このシリーズはインクジェット・プリントによる)。このシリーズでは、書店が提供する紙のブックカバーが、一枚の紙として再現されているように見える。しかし、「ブックカバーというモノが複製されている」のではない。本の表紙を包むように両端が折り曲げられ、本が不在の状態で自立している作品において、そのような状態で自立している「ブックカバーを見ることが複製されている」。しかし、この記述は正確ではない。まず、「複製」は、「ブックカバーというモノ」の「複製」との対比から導かれているに過ぎず、不正確である。「見ること」が作品のモチーフである場合、モノのように「複製」のもとになるオリジナルな事象は、存在していない。
次に、「見ること」も不正確である。この作品のモチーフは、「ブックカバーを見ること」ではなく、「ブックカバーが見えている状態」である。「見る」という能動的な行為は、「見えている」情報を、文字、デザイン、形状、素材などの読み取りや、自立しているという状態の読み取りへと接続してしまう。「見ること」を対象とする作品化はデッサンや絵画に近似するが、長田は、そうではなく、視覚情報が意味や認識へと接続される以前の「見えている(なにか)」を作品化の対象とする。従って、「ブックカバーを見ることが複製されている」という記述を「ブックカバーが見えている状態がモチーフとなっている」へと改めなくてはならない。
そして、そのような作品化は、デッサンや絵画よりも写真に近似し、長田の制作に介在する、写真を撮影する工程の重要さを浮き上がらせる。ならば、モノについて、イメージについて、そして、写真について、深い洞察を示した、ボードリヤールの言葉が、再び想起されるのは、必然的なことなのだろう。
「ずっと以前から、われわれは、われわれ人間なしで進行する世界という奥深い幻覚を抱いているのではないだろうか。人間的な、あまりにも人間的なあらゆる意思から逸れて、われわれ人間のいない状態の世界を見たいという、詩的誘惑を感じているのではないだろうか。詩的言語の強烈な快楽とは、言語がそれ自体によって、その物質性、その文字性をつうじて、意味を経由せずに機能するのを見とどけることである—-そのことが、われわれを魅了する。」[2]
ここで、最後の一文を、長田の作品についての記述として、以下のように読んでみたい誘惑にかられる。
「長田奈緒の芸術の強烈な快楽とは、イメージがそれ自体によって、その物質性、その平面性をつうじて、意味を経由せずに機能するのを見とどけることである—-そのことが、われわれを魅了する。」
「意味を経由せずに機能する」という記述は、今回の個展において発表される新作の本質を言い当てているように感じられる。「少なくともと一つの」と題された今回の個展において発表される〈Printed sprayed paints〉(2022)は、これまでの作風とはやや異なる印象をもたらすだろう。壁に立てかけられた数枚の木板には、スプレーによるペイントが見える。しかし、スプレーによるペイントと見えるその色彩は、シルクスクリーンによって刷られたものである。スプレーによるペイントは長田自身の手によるものであり、その点は、既存のモノをモチーフとしてきたこれまでの作品と異なる。しかし、長田は、今回のモチーフが自身の手によるものであることに過剰な意味を持たせておらず、他人の手によるスプレーのペイントも許容される。ならば、今回のモチーフの設定は、長田の作品が既存のモノに依存してはいないことを示しているのだろう。
何枚かの木板が、重なるように壁に立てかけられているが、前の板に覆い隠されている領域にも、スプレーによるペイントが刷られている。まるで、スプレーのペイントが、複数の木版を浸透しているかのようである。木板はアクリル板のように感じられ、視覚的な透明性が感受される。さらに、木版が透明なパネルと化してしまう感覚にとどまらず、その透明なパネルが、布のように、重なり合うパネルへと、スプレーの噴霧を浸透させているように感じられる。視覚的な透明性と物質的な浸透性が感受され、スプレーの噴霧という痕跡だけが、複数の板状の物体をものともせず、見えてくる。この時、視覚的な透明性と、物質的な浸透性が、まさに、「意味を経由せずに機能する」。このような感覚は、痕跡の複製としての今回の新作が、これまでの長田の作品と通底しており、さらなる進化と深化を予感させるものであることを示している。
長田の作品に向き合うと、その作品が存在を許容される世界を体験する。現実世界において、現実の時間と空間の中で、私自身の身体と精神を駆使している以上、長田の作品が存在を許容される世界を、私はすでに経験しており、その世界の存在を、確かな手応えとともに、実感している。しかし、私は、この現実世界から、長田の作品が存在を許容される世界へと移行してしまうわけではない。現実の世界に存在しながら、芸術の世界を経験するのである。「刷られている(なにか)」から感受される「見えている(なにか)」、その(なにか)について考えるために、最後に、もう一度、ボードリヤールの最晩年の言葉に、耳を傾けてみよう。長田の作品に「刷られている(なにか)」、長田の芸術に向き合うことから感受される「見えている(なにか)」と、以下の記述においてボードリヤールが執拗に暴き出そうとしている「何か」を、ショートさせながら。
「真実あるいは現実性のほかに、最後のところで何かがわれわれに抵抗する。
何かが、原因と結果の連鎖のなかに世界を閉じこめようとするわれわれのあらゆる努力に抵抗する。
現実性の外部というものが存在している(だが、ほとんどの文化にはこの概念さえない)。それはいわゆる「現実的な」世界以前の何か、還元不可能な何かであり、始原の幻想に結びつき、また、あるがままの世界にどんなものであれ究極的な意味を与えることの不可能性に結びついている。」[3]
註
[1]ジャン・ボードリヤール『パスワード』塚原史訳, NTT出版, 2003年, 14-15頁。
[2]ジャン・ボードリヤール『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』塚原史訳, 筑摩書房, 2009年, 34頁。
[3]ジャン・ボードリヤール『悪の知性』塚原史・久保昭博訳, NTT出版, 2008年, 36-37頁。
※本稿のタイトルにおける(なにか)という表記は、長田による前回の個展(Maki Fine Arts, 2020)のタイトル「大したことではない(なにか)」をふまえている。
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長田奈緒 |Nao Osada
1988年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。主な個展として、「I see…」NADiff Window Gallery(2022年)、「大したことではない(なにか)」Maki Fine Arts(2020年)、「息を呑むほどしばらく」Open Letter(2018年)。グループ展に「感性の遊び場」ANB Tokyo(2022年)、「Shibuya Hikarie Contemporary Art Eye Vol.15 3人のキュレーション:美術の未来」渋谷ヒカリエ CUBE(2021年)、「Encounters in Parallel」ANB Tokyo(2021年)、「アレックス・ダッジ、末永史尚、長田奈緒 by Maki Fine Arts」CADAN有楽町(2021年)、「描かれたプール、日焼けあとがついた」東京都美術館(2020年)など。